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源平とその周辺

源平とその周辺 第2部:第24回 静の哀しみ

0606 源平 義経と行家(頼朝や義経の叔父)が京に潜伏しているという噂がささやかれている。しかも、比叡山の僧達も関わっているという。頼朝は義経に助力した僧達を捜索するよう朝廷に要請したが、朝廷側としては確たる証拠もないのに比叡山に対して事を構えることはためらわれていた。文治2(1186)年5月14日。工藤祐経や梶原景茂(景時の子)ら御家人達が、静の宿所で酒宴を催した。静の母の磯禅師(白拍子の元祖と言われる女性)も芸を披露する。この宴の最中に、酒に酔った景茂が静を口説いた。静は言う。「義経様は鎌倉殿(頼朝)の御兄弟であり、私は義経様の思い者です。御家人の分際で、どうして普通の男女のように考えるのでしょう。義経様が追われる身となっていなければ、こうして対面することすらあり得なかったはずで、私に言い寄るなどもってのほかです」。涙を流しつつ、静は毅然として退けた。
 さて、静は大姫(頼朝の娘)のもとに呼ばれたこともあった。大姫は、取りついた邪気を退散させるために南御堂(勝長寿院)で御籠もりをしているところだった。婚約者の義高(木曽義仲の子)が父の頼朝の命令で殺されてから、大姫は心身を病んでいたのである。静は、彼女のために舞を披露した。
 義経と結託していた源行家と子の光家が、和泉国でとうとう誅殺された。義経の都落ちに同行していた源有綱(頼政の孫)や、伊勢三郎義盛も討たれた。義経についての情報が錯綜する。義経が比叡山にいるとの証言を得て、関与した僧達を捕らえてはみても、肝心の義経が出てこない。ちなみにこの頃、摂関家の藤原(九条)兼実の子の「良経」も「よしつね」であることから、それを憚って、当人のあずかり知らぬところで義経の名は「義行」と改名されていた。鎌倉では閏7月29日に静が男の子を出産。女子ならば助命されるところを、男子であるため命を絶たれることとなった。将来叛逆する惧れがあるためである。使者の安達清経がどんなに説得しても、赤子を抱いた静は絶対に渡すまいとして泣き叫びながら抵抗し続けた。やむなく磯禅師が静の手から奪い取って使者に赤子を渡す。生まれたての赤子は、殺されて由比ヶ浜に棄てられた。
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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