
国道1号を西へ進み、大磯の市街地を抜けると、左手に木々に囲まれた小さな三角形の緑地が姿を現す。車であればあっという間に通り過ぎてしまうような、街中の緑地の1つにしか見えないこの場所には、同志社大学設立の祖、新島 襄の終焉の碑が建つ。毎年1月23日の襄の命日には同志社大の卒業生や多くの町民がここを訪れ、碑前祭で襄を偲ぶ姿が見られる。同志社といえば、関西の大学ではあるが、その設立者がなぜ大磯を訪れ、碑を建てられることになったのか。卒業生らの想いとは。今週は大磯町と教育者、新島 襄の関係をご紹介。
明治時代の教育者で、明治六大教育家の1人にも数えられる新島 襄は1843年、現在の神田で生まれた。1864年、アメリカの教育に憧れを持ち、21歳の時に当時の禁忌を犯し函館から密出国。アメリカで学問に励む中で1866年には正式な留学生として認可を受ける。その後、岩倉使節団に随行し、1874年には日本に帰国した。帰国後は同志社英学校を創立し初代の校長に就任。しかし1889年、同志社大学設立に向けて奔走していた襄は病に倒れる。療養に努めるも1890年、妻である八重、教え子の小崎弘道、徳富蘇峰に看取られながら46歳11カ月の若さでこの世を去った。この時、蘇峰の勧めで療養のため訪れていたのが大磯だ。海岸にほど近い百足屋旅館の別館、愛松園に襄が滞在したため、現在もその跡地には襄終焉の地を示す碑が残っている。
カタルパの植樹
今年は、そんな新島 襄の没後125年、そして同志社創立から140周年の年になる。これを記念して同志社校友会神奈川県支部では、大磯町にカタルパの苗木を寄贈することを決め、先月28日には町職員らと共に大磯運動公園で式典を行った。カタルパとは北米原産の落葉樹で、襄が明治時代に種子を取り寄せ、当時熊本で大江義塾の開校に苦労していた徳富蘇峰を励ますために、蘇峰の父と蘇峰に贈ったのが日本での始まりといわれている。そんな逸話から襄と蘇峰の師弟愛を伝えるカタルパが、同志社と大磯の絆を象徴するものとして贈られた。今回は襄から蘇峰へと贈ったルーツとされるカタルパから接ぎ木された2世・3世の2本の苗木が植えられた。
同志社卒業生の想い
大磯が終焉の場所とはいえ、大磯に残るのは墓ではなく、あくまでも“場所を示す碑”に過ぎない。だが同支部の支部長を務める竹村慶三さん(68)は「毎年の碑前祭では我々卒業生に加えて、多くの町民のみなさんが参加してくれる。それだけでなく日頃の庭園の清掃や夏場の水やりなど、心遣いに本当に感謝している。そんなところに、やはり絆を感じる」と目を細める。加えて「同志社校友会は各都道府県はもちろん、海外にも校友会の支部を持つ。そんな中、神奈川には襄が帰国した横浜、そして終焉の地の大磯がある。2つもゆかりの地があって誇らしい。今回の植樹で絆が一層深まれば」とにこやかに話していた。一方で、中﨑久雄町長は式典で、5月から同町で始まる新教育制度に触れつつ「大磯の子ども達と新制度と共に苗木を育てていきたい」と挨拶。襄が求めた教育への純粋な想いを、町として未来を担う子ども達に伝えると誓っていた。
カタルパは成長すると18m程にまで伸び、5月には白い花が咲く。植えられた苗木はまだ50cm程度だが、10年もすれば花をつけるという。襄が大志を抱き蒔いた教育の種は、ここ大磯でも、ゆっくりと花開く時を待っている。
【写真TOP】カタルパの苗木。
【写真下左から】同志社校友会メンバーと中﨑久雄町長ら/新島 襄『近世名士写真 其2』より(国立国会図書館蔵)/国道1号沿いの碑(照ヶ崎海岸入口付近)
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