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源平とその周辺 |2013.11.30

源平とその周辺 第2部:第1回 失われた宝剣

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 平家一門との合戦に壇ノ浦にて勝利した義経。しかし、まだ重要な仕事が残っていた。三種の神器の確保――これが朝廷との交渉を有利に進めたいと考える頼朝からの厳命であった。平重衡の妻である大納言典侍(輔子)が抱えていた内侍所(神鏡)は、すんでのところで手に入れた。神璽は、波の上に浮かんでいるところを義経の郎等が取り上げた。だが、二位尼(清盛の妻・時子)が神璽とともに身に帯びて沈んだもう一つの神器である宝剣だけは、泳ぎに熟達した者達や海人による懸命の捜索にもかかわらず、とうとう見つからなかった。
 海に没した「天叢雲(あめのむらくも)の剣(のちに草薙の剣と改名)」は、もともとは八岐大蛇(やまたのおろち)の尾の中にあったものだといわれている。出雲で人を食うとして怖れられた、頭と尾が八つずつある大蛇をスサノヲノミコトが退治した時のこと。酒入りの八つの桶に頭を入れて飲んだ大蛇が酔い伏したのを狙って、スサノヲがずたずたに斬り裂いたのだが、どうしても斬れない尾が一つだけあった。よく見てみると、尾のなかに霊剣が入っていた。大蛇の尾にあったときは常に雲が立っていたことから「天の叢雲」の剣と呼ばれた。この剣が時を経てヤマトタケルノミコト(倭建尊・日本武尊)の手に渡ったときのこと。ヤマトタケルが東征の途上の駿河国で、四方の野に火をつけられて焼き殺されそうになったことがあった。その時に、辺りの草を薙ぎ払って難を逃れたために、「草薙の剣」と呼ばれるようになった。
 様々な歴史を経てきた宝剣が海底に沈んで見つからないことを「昔、スサノヲに斬り殺されて霊剣を奪われた大蛇が、八つの頭と尾を示すしるしとして8歳の帝となって霊剣を取り返し、海底に沈んで龍宮に納めたに違いない」と考える者もあった(『平家物語』)。『愚管抄』を記した慈円は、天皇の「武」の面を守る剣が失われたことは、武士の世が始まるゆえに宝剣の役割が終わったことを示すのではないかと解釈している。
 ともあれ三種の神器をすべて無事に回収できなかったことは、義経にとっての大失態であるといえた。
【写真】日本武尊から名付けられたという日本平(静岡市)にある、草薙の剣を持つ日本武尊の像 写真提供=日本平ホテル
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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