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源平とその周辺 |2013.12.06

源平とその周辺 第2部:第2回 頼朝の怒り

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 1185(元暦2、文治元)年4月11日。鎌倉にいる頼朝は、勝長寿院(南御堂)の立柱の儀式に臨んでいた。この勝長寿院は、亡き父である義朝のために建立するものだ。そのとき、急使が頼朝のもとに到着した。そして源氏軍が平家を討滅したことを告げた。使者は西海にいる義経からの記録を携えている。内容は、3月24日に壇ノ浦で逆賊の平家を滅ぼしたこと、安徳天皇が海底に沈まれたこと、入水した人々や生け捕りになった人々の名などを報告するものであった。そしてさらに、三種の神器のうちの内侍所や神璽は確保したが宝剣は探索中であるとも述べられていた。頼朝はそのまま記録を手に取って巻き戻して持ち、鶴岡のほうに向かって座る。一言も、発しなかった。儀式後に大工達に褒美を与え、御所に戻ってから合戦の詳細を使者に聞いた。翌日には、範頼(頼朝の弟)は九州で事後処理にあたり、義経は生け捕りになった者たちを連れて上洛せよということが定められた。
 4月15日。頼朝は憤懣(ふんまん)を隠しきれなかった。自分の推挙を受けることなく、多くの関東御家人たちが大した功績もないのに勝手に都で任官したからだ。だから下文(命令書)を彼らのもとに遣わした。次のようにしたためた。「本国へ戻ることを停止し、それぞれ在京して公務を勤めるように」。つまり、京都に居続けて仕事に励むように、ということだ。そして続ける。「墨俣川(岐阜県大垣市)より東に下ることは許さない。もし下ってきたならば、本領を没収し、朝廷に申請して斬罪に処す」。頼朝はこの文にご丁寧に一人ひとりの悪口を付け加えた。例えば義経の従者の佐藤忠信(屋島合戦で戦死した継信の弟)に関しては「奥州の藤原秀衡の従者の分際で衛府の官職に任命されるなど身の程知らずで、イタチ(鼬)にも劣る」とした。他の人物に対する評も、「声がしわがれている」「顔がふわふわとしている」と細かにあげつらって、「ただ伺候していればよいものを任官するとはとんでもない」などと、手厳しく言い連ねる。今回の無断任官で頼朝の激しい怒りをかった者、24名。以前、頼朝に無断で任官した義経に関しては、まったく言及されていなかった。それがまた、恐ろしかった。
【写真】
『勝長壽院舊(「旧」の旧字体)蹟』の碑(鎌倉市雪ノ下)。大御堂とも呼ばれた壮大な寺院で、当時は鎌倉3大寺社として鶴岡八幡宮、永福寺と並び称された
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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