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源平とその周辺 |2013.12.13

源平とその周辺 第2部:第3回 景時の書状

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1213 源平 4月21日。梶原景時からの書状が鎌倉の頼朝のもとに到着した。そこに記されていたのは、西海において多くの奇瑞(めでたいことが起こる不思議な前兆)があらわれた平家との合戦の次第、そして頼朝の代官として派遣された義経が自分一人の功績のようにふるまうことへの不満であった。景時は訴える。「判官殿(義経様)のためではなく、君(頼朝様)のためを思ったからこそ兵士たちは心を一つにして戦って勝利したのです。自分勝手で傲慢な義経に従う心を皆、持ち合わせていません。私は頼朝様のご意志に反するような行動をとる義経を諫めてまいりましたが、かえってそれが身の災いともなりかねない有り様です。合戦が終わった今となっては、早くお許しをいただいて帰参したいと考えております」――。
頼朝の弟の中でも、範頼は千葉常胤や和田義盛に相談しながら頼朝の意向に沿って物事を進めてきたのに対して、義経は頼朝の意向を考えずに独自の考えで行動する傾向があったようだ。これが景時だけでなく、ほかの人々の恨みをも買ってしまった。頼朝は29日、西海への使いに書状を持たせた。田代信綱に宛てたものだ。その内容は、「義経は頼朝の使いとして派遣されている立場であるのに、自分勝手なふるまいが多く、恨みに思う者もいるという。関東に忠義立てするつもりであるならば、今後、義経には従わないように。その旨を内々に皆に伝えなさい」という厳しいものであった。
この頼朝の書状が出される数日ほど前のことである。状況が不利になりつつあるとも知らぬ義経は、京都へ意気揚々と凱旋した。後白河法皇はその様子をご覧になるために密かに牛車にてお出ましになった。平家の総帥である平宗盛をはじめとして、生け捕りになった平家一門の人々が京都に入ってくる。前と後ろの簾をあげて、左右の物見の窓を開けた牛車に乗せられて、さらされる平家。京都の人々は、平家追討が義経の多大なる功績によってなされたという印象をますます強く受けた。義経は、誇らしかった。
【写真】『集古十種 古画肖像之部 下』(国立国会図書館蔵)に描かれた「梶原平景時木像」の画。「同(武蔵)國馬込萬福寺安置」とある
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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