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源平とその周辺 |2014.01.10

源平とその周辺 第2部:第4回 宗盛と涙

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 義経に率いられて都の大路を引き回される人々の中に、平宗盛(清盛の子)がいた。彼は、平家を滅亡に導いた総帥として、その愚鈍さが強調される人物だ。都落ちの際には後白河法皇をお連れすることもできなかった。壇ノ浦では親族が討ち死にをしたり入水したりする一方で、ぐずぐずしていて捕らえられた。潔くない、と思われても仕方がない。息子の清宗が海中に沈んだら自分も沈もうと様子をうかがっているうちに死すべきタイミングを逸したのだ。その清宗は、今は同じ車の後方に乗っている。都には捕虜となった平家を一目見ようと大勢の人々が詰めかけた。平家の栄えていた頃を知っているだけに、涙を流して見物する人もいる。
 宗盛と清宗の乗る車を担当しているのは、三郎丸という牛飼いである。平家への恩義が忘れられなくて義経に自ら願い出たのだ。情けある義経の許しを得て車の世話をする三郎丸は、涙にくれて前が見えないが、牛の進むのに任せて懸命につとめる。義経の六条堀川の宿所に入った宗盛は、差し出された食事に見向きもせずに、涙を流す。夜になったが装束も脱がずにいた。片方の袖を下に敷いた形で横になる。涙がとめどなくあふれてくる。傍らには、息子の清宗が眠っている。宗盛は、そっと自分の衣の袖を清宗の上にかけた。警固の武士たちは、そのような宗盛の様子に親としての情愛を感じた。「身分が高かろうが低かろうが、恩愛の道ほどせつないものはない。衣の袖をかけたところで何ほどのものかと思われるのに、これだけでもせめて、という御志の深さよ」。そう言って勇ましい兵士たちも鎧の袖を濡らした。罪状に関する審議では、宗盛父子と家人達は死罪に相当するとの話が出た。平家追討に功のあった頼朝に対しては、従二位に叙すことも決まった。これは破格の昇進である。
 義経は入京してみて驚いた。自分が頼朝の勘気を被っているというではないか。早速、頼朝に対して「異心はありません」との起請文を送る。しかし、「義経には従うな」との頼朝による書状を持った使者が、すでに梶原のもとへと発せられていた。
【写真】
京の名水として知られた井戸『左女牛井(さめがい)之跡』。源氏の本拠地、義経らが居を構えた六条堀川館の邸内にあった(京都市下京区堀川通五条下る)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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