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源平とその周辺 |2014.02.14

源平とその周辺 第2部:第9回 重衡、死への旅路

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OLYMPUS DIGITAL CAMERA 宗盛の弟の重衡もまた、西へと護送されていた。東国で捕虜としての日々を過ごしていた重衡の身柄の引き渡しが、彼が焼き討ちした東大寺や興福寺の僧達によって強く要請されていたのだ。それで今回の奈良行きとなった。途中、重衡は警固の武士達に請う。「子を持たない私はこの世に思い残すことはありませんが、最後にもう一度妻に会って死後のことを言い置いておきたいと思うのですがお許しいただけるでしょうか……」。願いは、聞き入れられた。
重衡の妻は大納言典侍(輔子)。壇ノ浦で内侍所(神鏡・三種の神器のうちの一つ)を抱えて海に飛び込もうとしたところを源氏方に捕らえられた女性である。今は日野(京都市伏見区)の姉のもとへ身を寄せていた。重衡の来訪を知らされて、走り出てくる輔子。痩せた様子の重衡が言う。「昨年の一の谷の戦で討ち死にすべきところを捕らえられ、京と鎌倉で引き回されて生き恥をさらしました。これから奈良に引き渡されます。こうしてお会いできて、安心してあの世へ行かれそうです」。そして額の髪をかき分けて口に届くところを少し食い切り、形見にと差し出す。輔子は「小宰相(通盛の妻)のように自分も海の底へ沈もうと思いましたが、あなたが亡くなったという確たる情報も得ていなかったので万一の可能性を頼みにこれまで生きながらえてきたのです。せっかく会えたのにこれが最後とは――」と言って涙を流す。重衡が、武士達を待たせていることを理由に暇を告げると、妻は泣きながら新しい浄衣(神事や祭礼などで着る白い狩衣)に着替えさせた。「縁があったら同じ蓮の上で共に生まれよう」、と別れを告げる重衡。「後を追いかけて走ってでもついていきたい」、それくらいの激しい気持ちを必死に抑え、輔子は見送る。
南都の僧達は、重衡をいかに残虐に処刑するかを皆で評議していた。しかし老僧達は「月日も経ち、僧のやり方としても穏当ではないので武士に斬ってもらったほうがよい」と主張する。再び武士に引き渡された重衡は木津川の辺で斬られた。遺体は輔子が引き取り、さらされていた首ものちに請い受けた。お骨を高野山に送り、墓を日野に建てる。尼となって、重衡の菩提を弔い続ける輔子。やがて建礼門院に従って大原に入り、その余生を過ごしたという。
【写真】
安福寺の境内に建つ重衡供養塔と伝わる十三重石塔。『平重衡卿之墓』の札が立つ(京都府木津川市木津宮ノ裏)
写真提供=木津川市
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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