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源平とその周辺 |2014.02.28

源平とその周辺 第2部:第11回 下河辺行平の忠義

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0228 源平 1185年7月。京都を大地震が襲った。激しい揺れに、多くの神社仏閣も崩れ落ちる。滅ぼされた平家の怨霊が原因か、と怖れる人々もいた。被害の甚大な都において、不思議なことに義経の館は少しも損害を受けなかったと伝えられる。
 さて、8月下旬には西国から帰着した下河辺行平(下総国の御家人)が、頼朝のもとへ参上して献杯した。行平はさらに九州第一の弓を進上する。しかし頼朝は受け取らない。不審に思ったのだ。西国に遣わした武士達は兵糧がなくなって、大将軍の範頼を残して多くが帰国してしまった。西海と行平の所領とはだいぶ距離がある。それなのに今、馬に乗って参上して献杯した上に、弓まで進上するという。もしや西国において不正を働き、他の者から金品を奪ったりしたのではないか。頼朝は、行平にそう疑念を述べた。行平は説明する。「西国で兵糧が尽きた時、郎従達を養うために彼らの武具を売却させました。そして豊後国に渡るときには自分の鎧を小舟と交換し、甲冑を着けずに渡り着いて真っ先に敵を討ち取りました。そうした私の功績は範頼様もご存知のことです。そして今日、私としては何も贈り物を持たずに御所に参上するわけにはいきません。九州で評判の高いこの弓が売られると聞き、着ていた小袖2領のうち1領を脱いで弓と交換したのです。献杯の費用に関しては、下総国に留め置いていた郎従達が用意してくれた旅費を、鎌倉に来る途中に受け取ったのでそれを充てました」。頼朝は行平の忠義に感激した。そして日本無双の弓取りである行平の眼力にかなったこの弓を、今度は喜んで受け取った。
 行平は、以前に頼朝を狙う不審な男を捕らえるという手柄を立てたこともあった。鶴岡若宮の上棟式(義経が馬を引く役を頼朝に命じられた式)の帰りである。この時の行平の対処の見事さに、頼朝は褒賞を与えるべく希望を聞いた。行平は毎年の貢馬(朝廷に馬を献上すること)の負担を領民が憂いていることを伝えた。官職や所領ではないその要望を意外に思いながらも頼朝は、領民思いの行平のために所領内の貢馬を免除するよう直ちに取り計らったという。
【写真】『前賢故実 巻第八』(国立国会図書館蔵)に描かれた「下河邉行平」の画。文末には「頼朝賞其功曰行平勇敢天下無雙」とある
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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