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源平とその周辺 |2014.03.07

源平とその周辺 第2部:第12回 亡き父のために

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0307源平 父・義朝の菩提を弔うための南御堂(勝長寿院)の完成に向けて、頼朝は準備を着々と進めている。この南御堂の立柱上棟式の際に、壇ノ浦で平家に勝ったという義経からの報告を受けとったのであった。完成を控えたこの時期、様々な物が鎌倉に運びこまれ、必要な人材が呼び寄せられる。何よりもこの南御堂の完成になくてはならないのが、これから届く父の首であった。以前から後白河法皇には亡き父の供養をしたい旨を奏聞しており、法皇も義朝の首を探すことに尽力してくれていた。義朝は、平治の乱で東国へ敗走する途中に尾張国で長田忠致(鎌田正清の舅)の裏切りにあって討たれた。その時に都に運ばれてさらされた義朝の首を、法皇は東の獄門周辺を捜索させて見つけ出した。義朝と同様に殺された鎌田正清の首も携えた勅使が、いよいよ関東に下向する。
 8月30日。勅使である大江公朝を迎えるために、頼朝は片瀬川の辺りまで自ら出向いた。遺骨は文覚上人の門弟の僧達が首にかけて持ってきていた。念願の父の遺骨を手に入れることができた頼朝は、9月3日には正清の遺骨を添えて無事に南御堂の地に葬る。遺骨は輿に乗せられて移されるという丁重さだった。頼朝は南御堂の供養の日まで、関わる人々への布施や進物などを引き続き細やかに手配することを怠らない。梶原景季と成尋らを上洛させるのも、その一環だ。供養の導師へのお布施や、堂を飾る仏具を整えさせるためである。大方はすでに京都で用意されている。もっとも、上洛する彼らには他にも命じられていたことがあって、一つは、平家との縁で配流の罪が決定しているにもかかわらず在京している者を、配所に赴かせるよう取り計らうことである。
 そしてもう一つの大事な使命。それは、義経の様子をうかがうことだった。館を訪れて「行家(頼朝や義経の叔父)の居所を探り当てて、誅殺せよ」との頼朝からの命令を伝え、義経の真意を探るのだ。配流となったはずの平時忠が今もまだ京にいるのは、義経が婿になった縁だともいう。しかも義経は行家と手を組み、自分に背くつもりであるとの噂も聞く。一体どういうつもりなのか。しっかりと見極めてきてもらわなければならない。
【写真】片瀬江ノ島駅付近より臨む、相模湾へと流れ出る片瀬川(藤沢市片瀬海岸)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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