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源平とその周辺 |2014.03.28

源平とその周辺 第2部:第15回 動き出した頼朝

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0328源平 頼朝を追討せよとの院宣を義経が手に入れたという。頼朝は思う。これでこちらとしても義経を攻撃する口実ができた。それにしても朝廷もよくもそのような命令を出せたものよ。これを機に、朝廷に対しても強気に働きかけていこう――。南御堂の落成式を無事に終えた頼朝は、ついに動き出す。兵を集めさせたところ、すぐにでも上洛できる者は小山朝政、結城朝光兄弟以下の58人。頼朝は命じる。尾張、美濃で足近、墨俣の渡しを固めてから入京してただちに行家と義経を誅殺せよ、もし彼らが京にいないときには頼朝の到着を待て、と。
 そしていよいよ頼朝自身が京に向けて発つ。先陣は土肥実平が、後陣は千葉常胤がつとめる。一行は、相模国の中村庄(小田原市東部から中井町にかけての辺り)に泊まる。相模国の御家人達が集まってくる。
 駿河国の黄瀬河に到着した頼朝は、この地で京都の情勢の把握につとめ、馬や兵糧の用意を進めるためにしばらく逗留する。黄瀬河は、奥州から出てきた義経が頼朝に初めて会った場所。しかし今は、皮肉なことにその義経を討つためにここにいる。
 義経は、院へと使者を遣わす。「ひとまず我々は西へと落ちていきます。最後にお目にかかるべきでしたが、武装しておりますので遠慮させていただきます」。以前の木曽義仲のような粗暴な軍勢とは違って、礼儀正しく都を出る義経らの軍勢の様子に都の人々は安堵した。西国へ向かう途中で摂津国の源氏が義経らに攻撃を仕掛けてきた。なんとか突破はしたが、義経は多くの兵を失う。さらに大物浜から船で乗り出した時には、突然の暴風による波の激しさに海を渡ることができず、貴重な軍勢が散り散りとなる。義経に従うのは、弁慶と静御前を含む4人だけ。平家と戦っていた頃には、強運にも暴風のなか四国まで渡海したが、あの時とは大違いで、今はことごとくうまくいかない。さらに悪いことに、都では後白河法皇が新たな命令を出すことになる。それは「義経と行家を捕らえよ」、というものであった。。
【写真】
頼朝もしばしば宿泊したという『豪族・中村氏居館跡(殿ノ窪)』(小田原市小竹1985付近)。案内板には「まわりを山でかこみ、内部およそ八反歩、後方堂地(高地)およそ三反歩」「東面馬跡型の現代に残る数少なき代表的豪族居館跡」とある
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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