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源平とその周辺 |2014.04.04

源平とその周辺 第2部:第16回 強気の頼朝

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0404 源平2 後白河法皇は困惑していた。このようなはずではなかったのだが――。予想外の事態である。頼朝が憤っているという。しかし頼朝追討の命令を出したのは、義経が強引に迫ったからであり、あの時はそうするしかなかった。あとから頼朝に事情を説明するつもりでいたのだ。それが、ここまで頼朝を怒らせることになろうとは。とりあえず、義経に任じていた伊予守と検非違使の官職を解く。都に入ってきた情報によると、義経と行家達は、西海へ向かう途中の大物浦(尼崎市)で遭難したという。船出した義経らに西から吹き付けた暴風は、平家の怨霊の仕業であろうか。ともあれ、遭難したという噂は聞くが、死亡したという事実はまだ確認できていない。そこでついに出すことになった。「義経と行家を捕らえて召し出すように」、との院宣である。
 頼朝は、義経が都を落ちたという知らせを聞いて、ひとまず上洛を延期することにした。今後の状況によっては上洛する可能性もあるので、それぞれ気を抜かずに準備はしておくようにと伝える。それから、義経の縁戚である河越重頼(娘が義経の妻)の所領を没収し、重頼の婿の下河辺政義(行平の弟)の領地も取り上げる。
 頼朝が腹に据えかねたのは、自分を追討せよとの命令を後白河法皇が出したこともさることながら、都落ちをする義経に九州諸国の、そして行家には四国の地頭の権限を認めたということだ。これらの命令は、義経が奏請するままに出されたという。こちらとしても黙ってはいられない。これを好機ととらえて、朝廷に対して遠慮なく要望を出していくつもりだ。ただ、どのような策を打ち出していくのが効果的であるかは、思い悩むところだ。
 そこで、大江(中原)広元が提案する。「有事の際に、その都度関東の兵を率いて鎮圧するというのは大変です。この際、諸国に御命令がいきわたるように国衙・荘園ごとに守護・地頭を置くことを朝廷に申請してはいかがでしょうか」。頼朝は感心した。関東の武家政権の影響力を全国にまで波及するためには、またとない名案である。朝廷は、こちらの要求にどのように反応するだろうか。突っぱねることなど、できないはずだ。
【写真1】大物浦があり、今も地名にその名を残す兵庫県尼崎市大物町。写真は、大物を流れていた大物川(現在は埋め立てられ大物川緑地となっている)に架けられていた大物橋(明治~大正期頃に撮影)
写真提供=尼崎市立地域研究史料館【写真2】歌川国芳の浮世絵『大物浦平家の亡霊』
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
0404 源平1

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