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源平とその周辺 |2014.05.23

源平とその周辺 第2部:第22回 鎌倉へ下った静

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0523 源平(加工禁止画像です) 文治2(1186)年2月。義経が多武峰(奈良県桜井市)に隠れているとの噂が流れていた。この義経の潜伏に関与した疑いがあるとして、師である鞍馬の東光坊阿闍梨や奈良の周防得業(聖弘)が鎌倉へ召し出されることになった。
 3月になって、義経の愛妾である静御前が、母の磯禅師とともに鎌倉に連れて来られた。頼朝の側近である藤原俊兼と平盛時が静の尋問にあたる。なんとか静から義経の行方を聞き出そうとするのだが、静の証言はどうも曖昧で要領を得ない。京都における聴取では義経らと吉野山に逗留していたと述べていたのに、今度は、吉野山中ではなく吉野の僧坊にいたと言うし、一体何が真実であるのか、見極めることができない。静は述べる。義経一行は山伏の姿で大峰(奈良県吉野から和歌山県熊野へ続く山の総称)入りをしました。私自身も従っていこうとしたのですが、女性であるゆえに大峰に入ってはいけないと僧坊の主に叱られてあきらめたのです。それで京に向かおうとしたところ、供をすることになっていた雑色(下男)らによって財宝を奪われて道に迷い、さまよい歩いて蔵王堂にたどりつくことになった次第です。その僧坊の主の名は、と聞かれましても忘れてしまいました――。後日改めて尋問された時も、静はやはり義経の居場所は知らないと主張し続けた。この頃になって、静が義経の子を身ごもっているということが明らかになった。出産ののちに静を京都へ帰すということに決まった。
 4月8日。頼朝と政子が鶴岡八幡宮に参詣する。今度こそ静の舞を見るつもりでいた。以前、静に舞を演ずるよう命じた時は、体調が良くないという理由で断られた。静としては、義経の妾である自分が今の状況で目立つ場に出ていくことは非常に屈辱的で恥ずべきことであるとして辞退し続けていたのだ。しかし、政子はあきらめなかった。せっかく天下の名人であると評判の静が鎌倉へ来ているというのに、その芸を見ずに京都へ帰すなどとは無念極まりない、と頼朝にしきりに働きかけていたのだ。頼朝は鶴岡八幡宮の回廊に静を召し出す。だが、「悲しみに沈んでおりますために、舞うことはできません」と、この場に及んでも静は、まだ拒み続けている。
【写真】 朝櫻樓国芳(歌川国芳)による静御前が描かれた錦絵『賢女八景』の「芳野暮雪」(都立中央図書館特別文庫室所蔵) ※この画像の無断複製や二次使用は禁止されています。
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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