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源平とその周辺 第2部:第26回 義実に預けられた盛国
壇ノ浦の戦いで平家一門が負けを喫した時、平盛国は源氏方に捕らえられた。盛国の子には、一の谷の合戦で猪俣則綱の騙し討ちにあった盛俊や、観音の加護により助命された盛久らがいる。盛国は、平清盛から絶大な信頼を得ていた側近であり、清盛は彼の邸で亡くなっている。清盛の死後には宗盛に仕え、彼らと共に壇ノ浦において生け捕られて鎌倉へ下ることとなった。そうして岡崎義実のもとにその身柄が預けられた。彼は、日夜一言も発することなく常に法華経に向かう。ちなみに盛国は、清盛が厳島神社に奉納した「平家納経」(国宝)の制作にも関わっており、その法華経の中には「左衛門尉平盛国」の署名もみえる。岡崎義実のもとで過ごす盛国は食を断ち続け、とうとう文治2年7月に74歳で亡くなった。頼朝はこの盛国の心ばえに感じ入った。この前の月(6月)には、平家一門と行動を別にして頼朝方につき、所領も官位も手中に収めた後、出家していた平頼盛(清盛の異母弟で池禅尼の子)が、京で死去している。
さて、岡崎義実(石橋山で戦死した佐奈田与一義忠の父)に関して言えば、この2年後に揉めごとを起こす。波多野義景の所領の一部(秦野市内)を、義景が京に行っている隙に手に入れようとしたのである。頼朝を前にして、義実と義景が訴訟対決を行う。義景は訴える。「波多野の地は先祖から私に受け継がれてきて今まで何の問題もなかったのに、なぜ望まれるのか」。義実は答える。「孫の先法師冠者(義景の娘と佐奈田与一の子)に所領を与えるとの義景による文書があるからです」。それに対し義景は反論する。「たとえ譲り状があるとしても、私がまだ生きているというのに、どうして望むのか」。義実は、折れた。孫の将来を安泰にしてやりたいとの思いから言い出したことであったのだ。頼朝は、所領の件は義景に一任すると判じた。さらに、不当な要求をした義実への罰として、鶴岡八幡宮と勝長寿院の宿直を100日間勤めるよう命じた。落ち込む義実。ところが、義実の郎従が箱根山麓で山賊のかしらを捕まえるという手柄を立てたため、赦されることになった。義実は、安堵した。
【写真】岡崎義実が居を構えたと伝わる岡崎城址。現在は無量寺(伊勢原市岡崎)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
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