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源平とその周辺 |2014.07.18

源平とその周辺 第2部:第28回 堀景光と佐藤忠信

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0718 源平 文治2年9月。義経の家人である堀弥太郎景光は京に潜伏していたところを、糟屋有季によって捕らえられた。この景光は金商人であったとされることから、義経(牛若丸)を奥州へと手引きした「金売り吉次」とは彼のことかとも推されている。景光は白状した。義経が南都(奈良)興福寺の周防得業聖弘の周辺にいたこと、自分がたびたび使者として藤原範季のもとへ赴き連絡を取り合っていたこと……。これをうけて、義経捜索のために500余騎が南都へ派遣される。この南都の周防得業聖弘という人物、約半年後に鎌倉に召し出されたときには堂々と自分の意見を主張し、頼朝を感心させた。義経のために、そして天下が鎮まるようにと心を込めて祈祷したと述べる得業の志に心を動かされた頼朝は、今後は関東の繁栄を祈祷するようにと、得業を勝長寿院の供僧とした。
 さて一方、同じく義経の家人である佐藤忠信も京都に潜伏していた。忠信は、奥州から頼朝のもとへ参陣する義経に、藤原秀衡が従わせた勇者であった。忠信の兄の継信は、すでに屋島の合戦で、義経の身代わりとして射殺されている。忠信はというと、京都においてかつて関係のあった女性に出した手紙が、居所発覚の引き金となってしまった。女が現在の夫に手紙を見せたことから、密告を受けた糟屋が、忠信のところへ攻め寄せることになったのだ。奮戦する忠信をなかなか討ち取れないでいた糟谷は、多勢で攻めることで、忠信と郎従2人を自害に追い込んだ。
 肝心の義経はいまだに行方不明である。頼朝は考える。義経が姿を現さないのは、京中の人々が義経に味方をしているせいだろうか――。この頃、「義行」と名を変えられていた義経。「義行は、能く行く、に通じるゆえに、今もまだ捕らえられずにいるのではないか」との進言を受けて、鎌倉方は元の「義経」に戻すようにと摂政(九条兼実)に対して提案する。そうして今度は「義顕」と改名された。「顕」とは、あらわれる、あきらかになるという意だ。さて当の義経は、妻子を伴って奥州を目指す。今となっては藤原秀衡だけが頼りだった。
【写真】
路地裏にひっそりと建つ『佐藤継信・忠信之墓』(京都市東山区)。古くは十三重の石塔が2基建てられていたという。現在その石塔は京都国立博物館の敷地内に復元されている。
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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