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源平とその周辺 |2014.08.01

源平とその周辺 第2部:第30回 義経、奥州へ(1)

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OLYMPUS DIGITAL CAMERA 文治3(1187)年4月。鶴岡八幡宮をはじめとした神社仏寺で、数日にわたって祈祷が行われた。「義経の居所を知るにはもはや神仏に祈るしかありません」との人々の意見を受けてのことである。人の力ではもうどうにもならない状況であった。それだけ、義経の行方に関する情報が錯綜していたのだ。そうしたところ鶴岡八幡宮の別当(長官)の円暁が夢で「上野国金剛寺で義経に遭うだろう」とのお告げを受けた。その寺の僧侶はより一層祈祷に励むようにと、頼朝は要請した。
 さて、山伏姿に変装した義経一行は奥州に赴く。『義経記』に語られる義経の北国落ちの様子をいくつか挙げてみよう。以下のエピソードがまとめられ脚色されて、のちに謡曲『安宅』や歌舞伎『勧進帳』の話などに発展していく。まず愛発(あらち・滋賀と福井の境辺り)の関所。警戒が厳しく、色白で上の前歯が出ている者はすぐには通さずに、「判官殿だ」といって拷問していた。そこへ来た義経一行かと疑われる集団。ある関守は考えた。「本物の山伏なら関所の通行料が免除されるのだから払うはずがないけれど、判官ならば通行料を払って先を急ごうとするに違いない」。関守達は義経一行を取り囲み、「ここを通る旅人すべてから通行料をとるようにとのお達しが鎌倉から来ている。さあ、お出しなさい」と迫った。弁慶は、「いつから山伏が通行料を出すようになったのか。前例のないことはできぬ」と堂々と切り返した。加賀国(石川県)富樫というところでは、弁慶はただ一人で分限者(資産家)の富樫の邸へ乗り込んでいった。後で追われることにならないようにするためである。管弦の遊びや酒宴が催されて賑わうなか、弁慶は「修行者が通るので斎料(ときりょう・お布施)をいただきたい」と声高に言った。強引に邸内に入る弁慶に対して、「狼藉者は追い出せ」と屋敷の者達が大勢で襲い掛かる。それをものともせずに、逆に殴りつける弁慶。大騒動となり、富樫介が現れる。「東大寺の勧進をする山伏だ」と名のった弁慶は、最終的には富樫をはじめとして奥方や家来達からも大量の勧進(寄進・寄付)を受けることになった。剛胆な弁慶の機転によって数々の難関をくぐり抜け、先へと進む義経一行。弁慶、大活躍の日々であった。
0801 源平下
【写真1】歌舞伎「勧進帳」で知られる安宅の関(石川県小松市安宅町)に建つ義経、弁慶、富樫の像(写真提供=小松市)
【写真2】小松市で毎年開催されている「全国子供歌舞伎フェスティバル」。写真は勧進帳上演時のもの(写真提供=小松市)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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