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源平とその周辺 |2014.08.22

源平とその周辺 第2部:第31回 義経、奥州へ(2)

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0822 源平 如意の渡し(富山県)で、ある渡し守が指摘した。「その山伏は判官殿(義経)に違いない」。それを聞いて弁慶は憤った。「これは白山から連れてきた御坊なのに年が若いために人に怪しく思われるのが悔しくてたまらない。ここから白山にお戻りなさい!」。そう言って義経を舟から引きずりおろし、扇で何度も殴りつける。これには渡し守のほうが驚いた。「違うなら違うでただそれだけのことなのに、こんなに容赦なく打ちのめすとは……」と気の毒がる。あとになって、弁慶は泣いた。「いつまでこのようにご主君をお打ちするようなことをしなければならないのか――」。日頃は猛々しい弁慶が号泣する姿を見て、周りの者達も涙を流した。
 直江の津(新潟県)で、土地の代官が言った。「判官殿が各地をうまくすり抜けて先へ進んでいるそうだ。その笈(山伏などが背負っている入れ物)を拝見したい」。弁慶は「御本尊の入っている笈に穢れた手をおかけになるとは畏れ多いのだが」といって渡す。中にあった鏡や櫛などについては弁慶の巧みな弁舌によって言い逃れることができた。が、兜とすね当てが入った笈はさすがに見られては困る。「権現の御神体」が入っているのだぞと大いに脅してなんとか開けさせずに済んだ。それでもあくまで剛胆な弁慶は、権現の怒りをなだめるためだとして清めの費用まで請求するのであった。ともあれ苦難の末に、ようやく義経一行は念願の平泉へ到着する。
 だいぶ時代が下ってから、この時の義経主従の逃避行の様子を見たと言う女性が現れた。若狭(福井県)の八百比丘尼(はっぴゃくびくに・やおびくに)である。彼女は、人魚の肉を食べたために15~16歳くらいの容姿のまま800年生きたと伝えられる女性で、源平の盛衰をも目の当たりにしたという。同じように赤魚というもの(諸説ある)を食べて不老長寿の身になったとの伝承を持つ者に常陸坊海尊(荒尊とも)がいる。義経の北国落ちにも同行したが、義経が攻められる日の早朝には近くの山寺に拝みに行っていて、なぜかそのまま戻らなかった(『義経記』)。生き延びた彼は不老長寿の身となって、後世の人々に義経達の最期の有り様を語ったと伝えられている。
【写真】
富山県高岡市内を流れる小矢部川のほとりに建てられている『義経記 如意の渡』像。実際に川を渡る「如意の渡し」は平成21年まで利用されていたが、伏木万葉大橋の開通によりその役目を終えたという(写真提供=高岡市)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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