カテゴリーから選ぶ
カテゴリーから選ぶ
源平とその周辺 |2014.08.29

源平とその周辺 第2部:第32回 放生会の準備

タグ

0829 源平 文治3(1187)年8月1日。今日から15日まで放生会(ほうじょうえ)に専念するように――。以前から関東の荘園などには命じておいたが、鎌倉の内と近隣の海浜や河川については再度徹底するよう、頼朝は指示を出す。放生会は、亡き者の供養や功徳を積むことを目的として行われる儀式である。殺生を禁じ、捕獲した魚や鳥獣を池や野に放す。石清水八幡宮(京都)の放生会がよく知られている。源氏の守り神でもある石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮でも行われるようになっていた。放生池(今の源平池)には、捕らえられた生き物が放たれる。
 4日。頼朝は、放生会で奉納する流鏑馬のために、射手と的立ての役割を御家人に割り振った。上手の的立て役を任されることになった熊谷直実は憤って拒否した。彼の言い分はこうだ。「御家人というものは皆、頼朝様に仕える同輩です。それなのに、射手は馬に乗っているのに対して的立ての者は歩きです。このような差別的な待遇を受け入れるわけにはいきません」。そう言って不満を隠さない。頼朝は再度命じた。「これらの役目はそれぞれの器量に応じて命じたものであって、優劣をつけようとするつもりはない。それに的立ての役は決して下に見られるような務めではない。新日吉社(いまひえしゃ)に後白河法皇が御幸になった時には、院の武者所の衆を召して流鏑馬の的を立てられた。それを思ってみれば、むしろ的立て役のほうが重い役割を担っているとも言えるのだ」。頼朝がそう説明したにもかかわらず、直実は納得しなかった。頼朝は罰として所領の一部を没収することにした。御家人にとって、土地は重要な基盤である。この罰は決して軽いものではない。それでもなお直実は、御家人はすべて対等であるべきだ、という信念を曲げなかった。
 9日。鶴岡八幡宮の境内を念入りに清める。馬場を造り、周囲に柵をめぐらせた。頼朝はその場に臨んで監督する。多くの御家人も参集した。頼朝は思う。今度の放生会は、これまでと違う。流鏑馬には格別の思いがある。なにしろ去年、奥州へと赴く西行法師に弓馬の道について、たくさんのことを教わったのだから。
【写真】流鏑馬(写真は、毎年4月開催の「鎌倉まつり」で奉納される武田流。放生会を起源とする毎年9月開催の鶴岡八幡宮例大祭で奉納される流鏑馬は小笠原流) 写真提供=鎌倉市観光協会
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
FM湘南ナパサで毎週土曜日9時~10時(再放送=毎週火曜日15時~16時)に放送中の「この人と60分」8/30(土)放送回では、本連載著者の新村氏がゲストとして出演されますので、そちらも是非お聴きください。

タグ
facebookシェア twitterシェア lineで送る
オンラインマガジン

湘南ローカル情報を日々更新中!

いますぐ使える 最新クーポン

色々な所で使えるお得なクーポンを発行中!

その他のクーポンをもっと見る
湘南ジャーナルDB 湘南のお店情報をまとめて掲載!
湘南ジャーナル まちナビ 最新情報

湘南のお店情報をまとめて掲載!

スタッフブログ

編集部情報を毎週更新でお届けします。

運営からのお知らせ

PAGE TOP