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源平とその周辺 |2014.09.05

源平とその周辺 第2部:第33回 流鏑馬の達人、盛澄

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0905 源平 8月15日。いよいよ鶴岡八幡宮の放生会が始まる。流鏑馬を奉納するために、あらかじめ射手に指名されていた5騎がそれぞれ馬場に進み出る。もちろん、的立て役のなかに熊谷直実の姿はない。それぞれの射手達が矢を的に当てて出番を終えた。これで流鏑馬の神事は済んだかと思われたその時、意外なことが起こった。突然頼朝が諏訪大夫盛澄を召し出して、流鏑馬をしてみせるよう命じたのであった。彼は藤原秀郷流の秘訣を受け継いで芸を極めた人物で、長年京都で流鏑馬に携わっていたために関東に参上するのが遅れ、頼朝の勘気を蒙っていた。頼朝はしかし、盛澄を厳罰に処しては流鏑馬の一流が廃れてしまうとして、その処置にずっと頭を悩ませていたのだった(『吾妻鏡』)。今日は丁度良い機会である。是非その腕前を見てみよう。そうした動機で今回指名することにしたのである。『諏訪大明神絵詞』には、信濃国(長野県)の諏訪下宮(諏訪大社下社)の神官の金刺盛澄(弟は手塚光盛)は源義仲との縁が深かったために頼朝の咎めを受け、死罪と決められて梶原景時のもとに預け置かれていたとある。景時は「盛澄は殺すには惜しい人物です。死罪にする前にせめて彼の弓馬の芸を御覧になってみてはいかがでしょうか」と頼朝に進言していたという。
 癖のある、荒々しい性質の馬が連れてこられた。「この馬は的の前に来ると右の方へと駆け出します」と、馬をひいてきた厩(うまや)の舎人(とねり)が密かに盛澄に伝える。多くの人々が見守るなか、盛澄はすべての的に当てた。次に、小さな土器(かわらけ)を挟んだ5寸の串が3本立てられた(『諏訪大明神絵詞』では射抜いた的の破片をそのまま射るようにいわれたとある)。これも、ことごとく射て駆け抜ける。またしても頼朝から難題が出される。今度はその串を射よ、とのことであった。盛澄は心の中で諏訪大明神に祈った。そうして見事に串を射切ることに成功したのだった。見物していた人々は、神技かと思われるほどの盛澄の射芸の鮮やかさに感嘆した。頼朝も感銘を受けて早速、盛澄の罪を赦す。弓馬の腕を見込まれた盛澄は以後、頼朝に仕えることとなった。
【写真】霞ヶ城(手塚城)に建つ金刺盛澄像(長野県諏訪郡下諏訪町)写真提供=下諏訪観光協会
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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