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源平とその周辺 |2014.10.10

源平とその周辺 第2部:第37回 相模国の武士

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1010 源平
文治4(1188)年4月。鶴岡八幡宮で臨時祭が行われた。頼朝が流鏑馬に堪能な者を召したところ、この日選ばれた故波多野(松田)義常の嫡男である波多野有経(有常)が、素晴らしい技を披露した。感心した頼朝は、有経の亡き父・義常の所領であったうちの松田郷を与えることにした。義常というのは、治承4(1180)年に頼朝が旗揚げした際、頼朝の招集に応じなかったために討手が遣わされ、自害することになった人物。そのため、子の有経は、親戚の大庭景義(景能)のもとに預けられていた。時を経て、ようやく流鏑馬の技によって認められることとなったのだった。ちなみに波多野庄(秦野市)については、義常の弟である義景の手に既に渡っており、本年8月に岡崎義実がこの地に関して所領争いを引き起こすことは既に述べたとおりである(第2部第26回参照)。
さて、有経を庇護し続けた大庭景義に目を向けてみよう。彼の弟の景親は、石橋山の合戦で伊東祐親と共に頼朝を攻めて勝利を得たが、のちに処刑されている。もうひとりの弟の俣野景久もまた頼朝に反する側について、石橋山で佐奈田(真田)与一義忠と死闘を繰り広げた人物である。景義には、保元の乱の際に義朝(頼朝の父)に従い、敵方の弓の名手であった為朝に狙われたが足を射られ一命を取りとめたという経歴もある。頼朝が挙兵してからは彼のもとで重要な役割を果たし、この後の奥州攻めに際しては、その道理を説いて頼朝に最終的な決意をさせるほどの幕府の重鎮である。
文治4年11月18日。その大庭景義の家の庭で狐が斃(たお)れていた。この怪異により、景義は謹慎。『吾妻鏡』の27日条には、景義らの父であった景宗の墓が群盗によって荒らされたという事件が載る。墓に納められていた重宝などが掘り起こされて盗まれたというのだ。景宗の墓は、相模国大住郡の豊田庄(平塚市豊田本郷付近)にあった。群盗については、追跡はしたものの捕まえることはできなかった。景義宅の庭で斃れていた狐と、この事件とに関連性はあるのか――。なんとも奇妙な出来事であった。
【写真】大庭景宗の墳墓と伝わる『大庭塚』(平塚市豊田本郷1688付近)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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