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源平とその周辺 |2014.12.05

源平とその周辺 第2部:第42回 西行にまつわる話

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1205 源平
 文治4(1188)年、第7番目の勅撰和歌集である『千載和歌集』が成立した。勅撰和歌集とは、天皇や上皇の命令を受けて編纂された歌集のことである。寿永2(1183)年2月に出された後白河院による撰進(天皇や上皇に奉ること)の命令は、使者である平資盛(維盛の弟、建礼門院右京大夫の恋人)を通して藤原俊成に伝えられた。この数か月後には力をつけた木曽義仲が倶利伽羅峠で維盛を撃破し、都へと攻め上ってくる。それを受けて7月には平家が都落ちを余儀なくされるといったように、社会情勢が目まぐるしく変転した時期であった。『平家物語』には平忠度が都落ちをする際に俊成のもとに引き返し、歌を託して入集を願ったという話が載る(第1部第24回に既述)。今回は千載集にまつわる西行の逸話を紹介したい。
 『今物語』に次のような話がある。西行が東大寺復興のために奥州平泉へと旅をしていた頃のことである。千載集に関しての話を耳にした西行は、自身の歌が入集したか気がかりだったために都へ向かうことにした。気になっていた自身の歌というのは、「心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮」。都を目指す途中で偶然知り合いに出会った西行は、この歌が千載集に入ったのかどうかを聞いてみた。ところが返答は、「否」。がっかりした西行は「都に上っても仕方がない」ということで、また陸奥へと引き返した、という話である。
 一方で『西行物語』には、足柄を越えて相模国大庭の砥上原(とがみがはら・藤沢市)の辺りを過ぎた西行が、夕暮れ時に鴫が飛び立つ羽音がしたのを受けて「心なき」の歌を詠んだと記される。しかし実際にこの歌がどこで詠まれたものなのかは判然とせず、真相は分からない。『千載集』には漏れたが、「心なき」の歌は西行亡き後、『新古今和歌集』に採られることになる。これは後鳥羽院の時代に、俊成の子の藤原定家が選者として関わった和歌集である。「秋の夕暮」を詠んだなかでも優れているとされる「三夕(さんせき)の歌」の一つとして、西行の「心なき」の歌は広く知られるようになる。彼の歌は高く評価されて、新古今集に最多の入集を果たすことになったのであった。
【写真】菊池容斎(江戸時代)により描かれた「西行法師」
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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