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源平とその周辺 |2014.12.12

源平とその周辺 第2部:第43回 義経潜伏の余波

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1212 源平 写真1
 奥州にいる義経や藤原泰衡を追討すべく、頼朝は何度も朝廷に圧力をかけていた。そのような状況下の文治4(1188)年6月。泰衡によって朝廷に献上される馬や金などの貢物が奥州から大磯駅に到着した。義経に対する問題が浮上している時期でもあり、これらの貢物を抑留すべきだろうかと三浦義澄は考えた。そうして頼朝にうかがいを立てる。結果的には、朝廷への献上物を幕府が介入して留めるのはさすがにしがたいだろうということとなった。しかしこのように義経が匿われている奥州の動向について、幕府は敏感になっていたのだ。
 さて、頼朝の強硬姿勢によって、義経に味方をする者達が次々と憂き目に遭っていた。豊後国(大分県)を知行していた藤原頼経もそのうちの一人で、義経に同意しているとして文治5年に伊豆へと流された。奥州に潜伏する義経と連絡を取り合っているという嫌疑がかけられたのだ。さらに頼経の子である宗長も解官された上に配流となる。頼経の家は蹴鞠(けまり)の名手を輩出する家であった。蹴鞠とは、鹿の皮で作った鞠を数人で蹴り上げて受け渡しをするという遊戯である。地上に落とさないようにして続けることが大事なので、相手が蹴りやすいように渡さなくてはならない。
 頼経の次男である雅経も連座して鎌倉へと連れてこられたのだが、蹴鞠や和歌の才能をかわれて鎌倉で高い評価を受けることになる。雅経は頼朝からも信頼されており、大江広元の娘を妻にもしている。蹴鞠を愛好していた2代将軍頼家にも厚遇された。罪が赦されて京都へ戻ってからも後鳥羽院のもとで認められて、『新古今和歌集』の撰者の一人ともなっている。京都と鎌倉を往復して活躍した雅経は、3代将軍実朝とも深く関わっており、藤原定家との橋渡し役も担っている。さらには『方丈記』の著者として有名な鴨長明とともに鎌倉へと下向し、実朝と長明との対面を実現させている。飛鳥井家の祖として和歌と蹴鞠において名を馳せた雅経の「み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり」の歌は、百人一首にも載る。
【写真1】 今月6日、川勾神社(二宮町山西)で湘南ベルマーレの岩尾選手、三竿選手、亀川選手により行われた「蹴鞠」
【写真2】菱川師宣が描いた『小倉百人一首』の「参議雅経」(国立国会図書館蔵)
1212 源平 写真2

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