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源平とその周辺 |2015.02.13

源平とその周辺 第2部:第48回 鎌倉の対応

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0130源平
 鎌倉では、審議が行われていた。6月に予定していた鶴岡八幡宮寺の塔供養を延期するべきかどうか、という議論である。頼朝は、義経の死によって穢れが生じたことを気にかけていた。それゆえ今は慎むべきであるとして、塔供養の延期を考える。しかし、着々と準備は進められていた。導師は既に鎌倉に下向しているし、後白河院から馬などの進物も賜っている。やはり予定通り行われることになった。心配なのは、これ以上の穢れが発生すること。だから頼朝は、鎌倉からの指示なく義経の首を持ってくることを禁じた。首を持参する使者はしばらく途中で逗留するようにと、奥州に通達する。
 義経死去の報を知らせるために京都へと遣わされていた使者が、鎌倉に戻ってきた。そうして後白河院の反応を伝える。「喜ばしいことだ。義経の滅亡によって国も平穏になるであろう。今後は弓矢を収めるように」との仰せがあったという。義経が亡くなった以上奥州を攻める理由はない、というわけだ。けれども頼朝に奥州を討つ心づもりは依然としてあり、舅の北条時政もこの時期、奥州征伐を祈念して伊豆の北条に願成就院を建立している。
 6月9日。鶴岡八幡宮寺で塔供養が行われた。頼朝自身は弟の義経が亡くなったということで近くまでは寄らずに、少し離れて儀式を見学した。13日。藤原泰衡の使者である新田冠者高平(高衡)が、奥州から義経の首を腰越浦に持参して、その経緯を述べた。腰越は、かつて頼朝の怒りに触れた義経が、鎌倉へ入ることを許されずに足止めをされた因縁の地である。ここで、和田義盛と梶原景時が首実検をする。黒い漆の櫃に納められて美酒に浸された首は、義経のものであると確認された。英雄の変わり果てた姿に人々は涙を流したという。藤沢の白旗神社(「白旗」とは源氏の持つ旗)には義経の首が葬られた地であるとの伝承が残り、付近には義経首洗い井戸の史跡も存する。暑いさなかにはるばる奥州からもたらされた首が、義経のものであると本当に判別できたのか――。今となっては真偽のほどはうかがえぬが、こうした疑問が、義経生存伝説を生み出す一因ともなっていくのである。
【写真】
白旗神社(藤沢市藤沢)付近の路地裏にある「源義経首洗井戸」と伝わる井戸
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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