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源平とその周辺 |2015.02.13

源平とその周辺 第2部:第49回 義経生存伝説

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0213 源平写真1 和田義盛と梶原景時が腰越で確認した首は、本当に義経のものであったのか。暑いなか、奥州から時間を経て届けられた首であるのに義経と判別できるものなのか。後世の人々は、そこに義経生存の希望を見出す。
 義経は死ななかったに違いない。平家討伐を短期間で劇的にやってのけた彼が、それほど簡単に自害へと追い込まれるわけがない。人々は想像した。義経は平泉では死ななかった。秀衡の死後に泰衡と不仲になった義経は、おそらく平泉を脱出して北へと逃げ、生き延びたのだろう。そうして、青森県津軽から蝦夷(北海道)の地へ渡ったに違いない。東津軽郡外ヶ浜町の三厩の義経寺には義経に関する伝承が存し、北海道にもまた義経や弁慶にまつわる伝説が残されている。
 義経伝説はそれにとどまらない。北海道のみならず、さらに大陸に渡ったという話も語られるようになる。そして義経はモンゴル帝国の祖であるジンギスカン(チンギスカン)と同一人物であるという説までもが出てくる。義経北行説を支持する作家の中津文彦氏は、様々な仮説を提示されている。なかでも、泰衡と義経は共謀していたのではないかという説は興味深い。奥州には17万騎の軍があるが、対鎌倉戦を見据えた時には実戦の経験もなく不安である。そこで、義経は三陸海岸を伝って津軽へ出て、優秀な騎馬軍団を求めて大陸に渡ったのではないか。そして奥州では泰衡が義経を襲撃したように見せかけて、関東に対して偽の首を送りつけたのではないだろうか、という想定を氏はされたのであった。〔著書〔『義経はどこへ消えた?北行説の謎に迫る』(PHP研究所)〕
 義経は、縦横無尽に日本国内を駆け回った人物である。京都の鞍馬で修行を積み、
元服して奥州へ向かう。兄の頼朝が挙兵するとすぐさま駆けつけ、平家を西海まで追いつめて滅ぼす。そして再び奥州へと逃避行。これほど国内を動き回った義経が、平泉で自害せずに北へ逃げ延びたのではないかと考えたくなるのもうなずける。判官びいきの心情がこれに拍車をかけ、人々の想像力をますます刺激する。英雄の栄光は短かった。けれども伝承や文学、芸能などの様々な世界において、義経は今なお自由自在に生きているともいえよう。
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
【写真上】菊池容斎(1781-1878)による『前賢故実 巻第八』に描かれている源 義経の人物画(国立国会図書館蔵)
【写真下】モンゴル帝国初代皇帝、チンギス・カンの肖像画(台湾・国立故宮博物院蔵)
0213 源平写真2

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