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源平とその周辺 |2015.02.20

源平とその周辺 第2部:第50回 泰衡の誤算

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0220源平
 「義経も誅殺したことであるから、これで奥州も安泰だ」。そう泰衡は考えただろうか。やっと頼朝や朝廷からの圧迫から解放される、とひと息ついただろうか。だが、受難はこれで終わりではなかった。
 頼朝にとっては、脅威となる義経がいなくなった今のほうが、むしろ奥州を攻め落としやすくなるのだ。頼朝が手に入れたかったのは、義経の首よりも、奥州という地であった。だから義経の件は、あくまで奥州に攻め入るための口実であった。「義経を匿っていた罪は、反逆以上のものである」として、頼朝は泰衡征討のため、着々と準備を進める。一方で朝廷は、「義経は滅亡したのだし、今年は伊勢太神宮や東大寺の造営もあるのだから追討はせぬように」との立場をとる。これ以上頼朝の勢力が強大になるのは避けたい。頼朝に対抗できる可能性を秘めている奥州勢は、ぜひとも温存しておきたい。しかし、頼朝は重ねて泰衡追討の勅許を朝廷に申請する。
 その頃、奥州では泰衡が弟の忠衡を討った。義経に味方をしていたから、というのがその理由であった。彼らの父の秀衡による「兄弟で力を合わせて義経を助けるように」との遺言も今や空しかった。兄弟は分裂していた。
 鎌倉に動員された軍勢は、すでに千人に達していた。奥州への途次に当たる武蔵や下野の国の人々には、合流するための準備をしておくようにと命じてある。しかし、まだ肝腎の勅許が出ていない。頼朝は、兵法の故実に詳しい大庭景義(景能)に相談した。景義は答える。「軍中においては将軍の命令を聞き、天皇の詔(みことのり)は聞かない、といいます。そもそも泰衡は累代の御家人の家を受け継ぐ者ですから、罰をお与えになるのに何の問題があるでしょう。軍勢が多数集まっているのに日を費やすのは人々の煩いとなります。すぐにもご出陣なさるべきです」。頼朝は大いに感心した。そうして、鞍を置いた馬を褒美として景義に与えた。
 7月1日。鶴岡八幡宮で放生会が行われた。本来であれば8月に催されるものである。泰衡征伐の祈祷をするという意図もある。しかしなにより8月、頼朝は鎌倉にはいない。奥州の地に、いるはずだからだ。
【写真】懐嶋(ふところじま)郷(現・茅ヶ崎市)を領した大庭景義の居館・懐嶋館から江戸時代に出土した礎石(茅ヶ崎市円蔵、神明大神宮境内)
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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