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源平とその周辺 |2015.02.27

源平とその周辺 第2部:第51回 出陣へ向けて

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0227 源平
 千葉常胤が新調の旗を頼朝に献上した。かねてより頼朝から命じられていたものである。小山朝政が進上した絹を使用して作られており、旗の上方には「伊勢大神宮、八幡大菩薩」、下方には2羽の鳩が向かい合う形で縫われている。また、旗の長さに関しては、平安期に源頼義らが陸奥の豪族である安倍氏を討った前九年合戦の例に倣って、その時に頼義が使用したものと寸法を同じにしてある。
 なぜ頼朝は、旗の作成にあたって千葉常胤を指名したのか。その理由は、治承4年9月にさかのぼる。石橋山の合戦に敗北した頼朝が、真鶴から安房へと逃れた頃のことだ。『吾妻鏡』の記すところに拠って示そう。安達盛長が使者となって頼朝からの参陣要請を千葉常胤に伝えた時、常胤は言葉を発さず眠っているかにみえた。その場に居た子息達が、「頼朝殿のお召しに応ずるのにどうして逡巡する必要がありましょう。承諾する旨の文書を早く出しましょう」と促す。常胤は言った。「もちろん私の心中もそのつもりだ。源家を再興されるのだと思うと、感涙が目を遮り、言葉も出ないのだ――」。そうして、常胤は「安房は要害の地でも源家ゆかりの地でもない。速やかに鎌倉にお移りになるのがよい」と重要な進言をする。その後、千葉氏は平家方であったといわれる下総国の目代を襲撃。さらに常胤は300余騎の軍勢を率いて下総国府にて頼朝に合流。頼朝は、「今後は司馬(常胤)を父と為す」と述べるほどであった。この後に上総介広常が大軍を率いて参上し、徐々に頼朝に味方する軍勢も増えていく。常胤の参陣を端緒として、諸国の軍勢が続々と頼朝のもとへ参向したのだ。おかげで頼朝は再起を図ることができ、今に至る。だからこそ奥州への出陣に際し、その吉例に倣って常胤に旗の作成を依頼したのであった。
 また、下河辺行平は、頼朝が着用するための鎧を献上。着々と準備が整えられていくなか、京都からの使者が到着。「義経が討たれたのに泰衡を追討するとは、天下の大事となる。今年中は思いとどまるように」との宣旨が下ったという。朝廷は、あくまでも認めない構えだ。頼朝は憤る。今さら延期などできようか。突き進むしか、道はない。
【写真】かつて千葉氏の居館があったとされる地、亥鼻公園(千葉市中央区亥鼻)内の市立郷土博物館(通称・千葉城)前に建つ『千葉常胤像』 写真提供=千葉市
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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