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源平とその周辺 |2015.08.07

源平とその周辺 第2部:第61回 平泉にて

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文治5(1189)年8月22日。頼朝が平泉に到着した。泰衡の姿は既になく、彼の館は焼け跡となっていた。辺りは静まりかえっている。ただ一棟だけ、焼けずに残っている蔵があった。頼朝が葛西清重や小栗重成らにその蔵を調べさせたところ、なかには数々の貴重な宝物が納められていることが分かった。牛黄(牛の胆石で薬として利用される)のほか、犀(サイ)や水牛の角、金や銀で作られたものなど、珍しい財宝ばかりである。その中にあった象牙の笛や布が葛西清重に与えられた。また小栗重成は、玉幡(玉で装飾した旗の飾り)や金の花鬘(仏具として飾られるもの)を所望して賜った。重成は、これらで自身の氏寺を飾るつもりだった。
さて泰衡の行方がいまだ知れぬ頃、ある者が頼朝の宿所の辺りに一通の書状を投げ入れた。どうやら泰衡から頼朝に宛てたもののようである。それには次のようにあった。「伊予守(義経)のことに関しては、父秀衡が扶持していたことであり、自分は関与していません。父が亡くなってから、ご命令を受けて義経を誅殺したことは、むしろ勲功というべきものでしょう。にもかかわらず、突然私を征伐なさろうというのは、一体どういうことなのでしょうか」。切々たる泰衡の訴えは続く。「すでに奥羽は頼朝殿の御支配のもとにあるといえます。どうか泰衡をお許しください。そして御家人に加えていただけませんでしょうか。それが叶わぬならば、せめて死罪ではなく遠流にしてください」。自身の赦免を請う書状であった。さらに、「もし返事を頂戴できるのであれば、比内郡(秋田県大館市の辺り)に落としておいてください」とも記されていた。比内郡の辺りに泰衡がいるということか――。捜索は続けられた。
さて泰衡は、比内郡贄柵の河田次郎のもとまで逃れてきていた。河田次郎は長年にわたり藤原氏に仕えてきた信頼のおける郎従である、と泰衡は考えていた。ところが、その河田が裏切った。不意に、彼の郎従達が泰衡を取り囲んで殺害した。河田は頼朝のところへと馳せ向かった。主人であった、泰衡の首を携えて。
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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