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源平とその周辺 |2015.07.17

源平とその周辺 第2部:第60回 泰衡の行方

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0717 源平
 文治5(1189)年8月12日。頼朝率いる大手軍が多賀国府(陸奥国府)に到着した。そして、東海道を進軍してきた大将軍・千葉常胤をはじめとする人々も、ここで合流することとなった。頼朝のもとには、逃亡中の藤原泰衡に関する情報が入ってくるのだが、確たることはいまだ分からない。泰衡がいるとの報告を得た地を捜索してはみても、既に泰衡本人の姿はない。泰衡の郎従達しか残っていないのだ。遣わされた小山朝政、朝光、下河辺行平らが泰衡の郎従達を討つ。しかし、肝心の泰衡は見つからないでいる。
 8月20日。頼朝は玉造郡(宮城県北西端)にある泰衡の城を囲む。しかし、ここにおいても泰衡の姿は見えない。城から逃亡した様子である。頼朝一行はさらに北へ進む。頼朝は、先陣の武士達である三浦、小山、和田、畠山の面々に、次のような通達を出した。「それぞれが敵を追って津久毛橋(つくもばし)の辺りに到った際、敵はそこを避けて平泉に入るだろう。泰衡は城郭を構え、軍勢を結集させて待ち構えると考えられる。攻めかかる時、わずか1千から2千騎ほどの勢力で駆けてはいけない。2万の軍兵をしっかりと調えたうえで、攻めよ。敵勢は、もう既に敗北している。我々味方の兵が1人でも被害を受けることのないように、周到に準備せよ」
 泰衡を追う頼朝軍は、平泉に近づきつつあった。途中の津久毛橋にて、梶原景高(景時の子)が和歌を一首詠んだと頼朝に言上する。「陸奥(みちのく)の勢は御方(みかた)に津久毛橋(つくもばし)渡して懸けん泰衡が頸(くび)」。陸奥の勢力が頼朝様の味方につく、そうして泰衡の首を獲って掲げるのだ、という意のこの歌を、頼朝はめでたい祝辞であるとして褒めた。その泰衡はといえば……。平泉の館の前を通ったものの、事態が切迫しているために、とどまる余裕が少しもなかった。そこで郎従を館のうちに遣わして、宝蔵などに火をつけさせる。立派な構えを誇る館や、金や宝石といった貴重な品々が、炎に包まれていく。やがて、灰燼に帰す。奥州藤原氏がこれまで築き上げてきたものが、終焉を迎えようとしていた。
えとき=奥州藤原氏の政庁・平泉館があったと想定されている「柳之御所遺跡」(岩手県平泉町)。平成22年より史跡公園として公開されている。写真提供=岩手県教育委員会
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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