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源平とその周辺 |2015.06.26

源平とその周辺 第2部:第59回 義盛の言い分

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0626 源平
 頼朝が逗留していた船迫(ふなばさま・宮城県柴田郡)の宿で、畠山重忠が国衡の首を献上した時のことである。進み出た和田義盛が、異議を唱えた。義盛の言い分はこうだ。「国衡が亡くなったのは、この私の矢に当たったからである。重忠の功績ではない」。重忠はたいそう笑って、言い返した。「義盛の言っていることはぼんやりとしていて、どうもはっきりしない。どんな証拠があってそのようなことを言うのか。私がこうして国衡の首を捕えて持ってきている以上は、疑いようもないことではないか」。義盛は、さらに言う。「首のことは、その通りではある。おそらく国衡の鎧は剥(は)ぎとられていることであろう。それを召し出していただいた上で、私の言っていることが本当か嘘か、その真偽のほどを確かめていただきたい。というのも、大高宮の前の田において、国衡と互いに相対したときに、私が放った矢が国衡に当たったからである。刺さった矢の穴が鎧の射向(いむけ・左側)の袖に間違いなくあるはずだ。鎧の毛は紅の色である。馬は黒毛であった」。義盛は、主張した。
 そこで、国衡の鎧を召し出してみたところ、はたして義盛の言う通り、紅色の皮が使われた鎧であった。そうして、射向の袖には矢の貫通した跡がはっきりと見てとれた。あたかも鑿(のみ)を通したかのような穴である。頼朝は重忠に尋ねた。「重忠は矢を放っていないのか」。重忠は、自身は矢を放っていないと述べた。このことに関して、頼朝は何も言わなかった。重忠の矢でないならば、義盛の矢であることは明らかである。義盛の述べたことは、すべてにおいて筋が通っており、少しの矛盾もない。ただ、重忠は生まれつき清廉潔白で、偽りを述べて人を欺くようなことなどしない人物である。この度のことも、よこしまな考えで行ったわけではない。国衡が討たれたとき、先に進んでいたのは郎従であって、重忠は後方にいた。その時点において既に国衡が射られていたとは、一切知らなかった。郎従の大串次郎が自分のもとに国衡の首を持ってきたから、大串が討って獲たものだとばかり思っていたのであった――。この話、特に大きな問題へと発展することもなかった。重忠が正直で高潔な人間であることは、人々の認めるところであったからだ。
【写真】
永和2(1376)年の銘があり、大串次郎の墓とも伝わる埼玉県指定史跡「金蔵院宝篋印塔(こんぞういんほうきょういんとう)」(埼玉県比企郡吉見町大字大串)
写真提供=吉見町
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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