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源平とその周辺 |2015.08.21

源平とその周辺 第2部:第62回 泰衡の首

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0821 源平
 河田次郎は駆けていた。主人である泰衡の首を持って贄柵を出立した彼は、頼朝のもとを目指して進んでいた。この首を持って頼朝の御前に参上し、御家人の列に加えてもらうのだ――。
 その頃頼朝は、陣岡(じんがおか・岩手県紫波郡)の蜂杜(はちもり)に陣を敷いていた。北陸道を進軍してきていた比企能員(ひきよしかず)や宇佐美実政らも合流した。これで、兵は総勢28万4千騎となった。各自が白旗を掲げており、威容を誇る有り様である。
 その陣岡に参上した者がいた。先ほどの河田次郎である。泰衡の首を、梶原景時を介して捧げた。和田義盛や畠山重忠らによって首実検が行われた。泰衡の首に違いなかった。梶原景時が、頼朝からの言葉を河田に伝える。「汝がしたことは、一見、功績があるように思われるかもしれない。けれども泰衡を捕まえることに関しては、もともと我が掌中にあったのである。他の者の手を借りるまでもなかった。それに、従来の恩を忘れて主人の首を獲ってさらすなどというのは罪にあたる。恩賞を与えることは到底できない。後の人々への懲戒のためにも、身の暇(いとま)を与える」。そうして、河田次郎は小山朝光に預けられ、斬られた。さて泰衡の首は、長さ8寸(約24cm)の鉄釘で打ちつけられて懸けられた。中尊寺金色堂に納められていた眉間に穴のあいた頭蓋骨は、泰衡の首であることが調査によって明らかにされている。その首桶に入っていた蓮の種子を咲かせるのに成功したものが、前回掲載の美しい「中尊寺ハス」の写真である。
 主人を討つ、ということは頼朝にとって許しがたい行為であった。自身の立場を危うくするし、何より父親である義朝が家人の鎌田正清の舅の裏切りによって滅ぼされたという経緯がある。だから河田次郎の場合も、斬罪に処すことで皆に見せしめる必要があった。
 さて、泰衡の従者の中には、頼朝が一目置く者もいた。それが、由利八郎維衡(ゆりはちろうこれひら)である。宇佐美実政によって生け捕られ、陣岡に連れてこられた者だ。ただ、少々厄介な問題が生じていた。
【写真】
河田次郎の居館・贄の柵城跡の推定地とされている古い八幡神社の鳥居(秋田県大館市二井田字贄ノ里)
写真提供=大館市教育委員会
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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