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源平とその周辺 |2015.10.09

源平とその周辺 第2部:第65回 陣岡にて

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1009 源平1
 由利維平の証言によって、やはり宇佐美実政が彼を生け捕りにするという功績を挙げたことが明らかになった。さて『吾妻鏡』(1189年9月9日条)には、次のような話が載る。頼朝が逗留している陣岡の蜂杜でのこと。近くにある高水寺の僧達が頼朝のもとに参上して訴えた。それによると、「この地に軍勢が野宿していることで、御家人に従っている者達が寺に乱入し、金堂の壁板を剥がし取っていってしまったのです。早急に狼藉をした者達を糾明していただきたい」、ということであった。頼朝は驚き、憤った。直ちに犯人を捜すようにと、梶原景時に命じる。捜索の後、犯人は宇佐美実政の従僕だと判明した。頼朝は、僧達の憤懣を鎮めるためにも彼らの前で刑罰を加えさせ、事態の収拾を図らせた。犯人の両手は切られ、板の上に釘で打ちつけられたという。
 さて、この奥州合戦、朝廷からの宣旨が下されないまま進められたものであったことは既に述べた通りである(第2部50回参照)。義経はもう討たれていたのだし、朝廷としても奥州勢力は頼朝を脅かす存在として温存しておきたかったからだ。だから頼朝は、大庭景義(景能)の「軍中においては将軍の命令を聞き、天皇の詔は聞かないものです」という助言を根拠として奥州に進軍してきた。それゆえ泰衡を討ち取ったことをこの陣岡から朝廷に報告する際にも、「討ち取った首を献上すべきではありますが、遠方でもありますし、源氏代々の家人ということですので朝廷に差し出すほどでもありません」との旨をしたためたのだ。つまり、あくまでも源氏代々の家人に制裁を加えるための戦である、という立場を強調していた。
 ところが、である。合戦の次第を報告するこの文書と行き違いに、なんと朝廷からの宣旨が今になって陣岡に到着したのである。曰く、「頼朝に泰衡の討伐を命じる」――。既に泰衡の首は頼朝の手中にある。しかも、「7月19日付」という、日付をさかのぼらせての宣旨であった。ここにおいて、後付けではあるにしても、朝廷からの命令のもとに行っている戦だという大義名分ができた。頼朝は心底、安堵した。
【写真上】古代から多くの武将が陣を構えた跡地「陣ヶ丘歴史公園」(岩手県紫波郡紫波町宮手字陣ヶ岡)内にある蜂神社。前九年合戦で義家に勝利を導いた蜂が祀られている
【写真下】明治元年に廃寺となった高水寺跡(紫波町二日町字向山) 写真提供(2点とも)=紫波町観光交流協会
1009 源平2
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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