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源平とその周辺 |2015.10.16

源平とその周辺 第2部:第66回 頼朝の威信

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1016 源平2
 陣岡での7日間の逗留を経て、この地を発つことになった頼朝一行。思えば、頼朝がこの志波(紫波)郡に到着したとき、樋爪(比爪)俊衡(初代奥州藤原氏である清衡の孫)は、館を焼き払って行方をくらましたのだった。さてここ陣岡には、高水寺の鎮守として走湯権現(熱海伊豆山)が勧請されていた。傍らには藤原清衡が祀った大道祖という小さな社がある。出立する際、その社の後ろにある槻の木(ケヤキ)に、頼朝は走湯権現への奉納のためにと鏑矢(音の鳴る矢)を2つ射立てた。さらに北へ向かった頼朝軍は岩井郡の厨河柵に到着。この厨河の地に、逃亡していた樋爪俊衡と弟の季衡、そして彼らの息子達が投降してきた。頼朝は、俊衡の様子を見て憐れんだ。60歳を過ぎた彼は、白髪も多くて弱々しく、老いた姿をさらしている。頼朝は、俊衡を八田知家(宇都宮朝綱の弟。姉妹に寒河尼)に預け置くことにした。知家の宿所において、法華経を声に出して読む以外、言葉を一切発さない俊衡。その様子を、知家は頼朝に報告する。もともと法華経を厚く信仰する頼朝は、彼の本領である樋爪を安堵する(領地の所有権を認める)ことにした。
 さらに藤原秀衡の子の高衡も降伏し、奥州合戦は終結する。頼朝の望みは果たされた。さながら源頼義が康平5(1062)年に厨河柵にて安倍貞任や宗任らを討った前九年合戦のようであった。川合康氏の研究によると、頼朝はこの先例を意図的に、執拗なまでに踏襲することで源氏の威を示そうとしたという(『源平合戦の虚像を剥ぐ』講談社学術文庫)。また山本幸司氏は、それにしてもなぜ、勇壮な逸話の伝えられる義家(頼義の子)による後三年の合戦ではなくて、清原武則の援助を得てようやく平定した前九年の合戦を意識してなぞったのかという問いに対して興味深い見解を示している。氏は、単に源氏の威信を高めるだけなら後三年の合戦でも構わないはずだが、あえて前九年を選んだのは「やはり朝廷によって公戦と認定されたという一点に懸かっている」ことを指摘する(『頼朝の天下草創』講談社学術文庫)。確かに、朝廷による大義名分を得た戦と、私戦として切り捨てられてしまう戦とでは、恩賞の有無やその威信という観点からも雲泥の差が生じてしまうのであった。
【写真上】樋爪館があったとされる一帯(紫波町南日詰字箱清水)
【写真下】大道祖社の後ろにある大槻(岩手県紫波郡紫波町二日町字向山)
写真提供(2点とも)=紫波町観光交流協会
1016 源平1
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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