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源平とその周辺 |2015.10.29

源平とその周辺 第2部:第67回 奥州合戦を終えて

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1030 源平
 厨河(くりやがわ)での7日間の逗留を経て、頼朝は平泉に向かった。平泉では、御家人達の勲功に応じて論功行賞が行われた。東海道軍を率いた千葉常胤が、まず恩賞に預かる。畠山重忠も領地を下賜されるが、狭小の地であった。重忠は、「自分は先陣を仰せつかっていたが、何人かに抜け駆けされた。先駆けを知っていながら見逃したのは、他の人々も恩賞に浴することのできるようにとの考えからであった」と語ったという。その言葉の通り、先陣をきった者達には広大な所領が与えられた。なかでもこの度の合戦で大きな功績を挙げたのは、葛西清重である。陸奥国の御家人の統括などを任され、何かあれば清重を通して幕府に伝えるようにということになった。さらに清重は、平泉郡内の検非違所(治安維持などの警察業務に携わる機関)も管轄する。
 葛西清重に後のことを託した頼朝は、帰途につく。1189(文治5)年10月19日には、下野国の宇都宮社に到着。ここは、奥州合戦に進軍する途次、戦勝祈願をした社である(第2部57回)。その際に、「奥州を征討した暁には、捕虜の一人を神職として捧げます」と約束していた。だからこの度、願いを聞き入れて見事に勝利をもたらしてくれたその御礼として、頼朝は荘園を寄進した。さらに、厨河で投降してきた、奥州藤原氏の一族である樋爪俊衡の親族の者を宇都宮社の職掌として奉った。
 鎌倉に凱旋した頼朝は、京へ報告のための使者を出す。11月には、奥州の地から遣わした使者が鎌倉に帰着した。後白河院からお褒めの言葉を賜る。また捕虜の処遇や恩賞の件に関しても言及されていた。頼朝は非常に喜んだ。ただ、恩賞に関しては辞退するつもりだった。勲功のあった御家人の名も報告せよとのことであったが、それはできかねると判断した。確かに御家人達にとっては名誉なことではあるが、恩賞は受けないとしながら彼らの名を挙げるというのも矛盾するし、もしその名が記録されて永く伝えられた場合、その記載に漏れた者の子孫が自分の先祖は軍功をたてなかったと恨みに思う恐れがあるからだ。さて、恩賞を辞退した頼朝。とはいえ、何としても手に入れたいものがあった──それは「奥州の支配権」。これに関しては、積極的に要請していく所存である。
【写真】
奥州藤原氏の一族、樋爪俊衡とその弟・季衡の墓と伝わる石塔。栃木県宇都宮市内の三峰山神社に祀られている
写真提供=宇都宮市教育委員会
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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