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源平とその周辺 第2部:第68回 葛西清重に寄せる信頼
この度の奥州合戦を振り返ってみると、頼朝は奥州の人々になるべく迷惑のかからぬように行軍することを意識していたと言える。多賀国府(宮城県多賀城市)でも地頭達に対して、国や郡に負担をかけたり住人を煩わせたりしないようにと強く命じていたし、戦に必要なものも上野国や下野国からの年貢などで賄って現地の人々に負担をかけぬようにと心を配っていた。ちなみに今回の遠征では、河野通信(伊予の豪族で、一遍上人の祖父)が土器(素焼きの土器)を持参して食事の際には毎回それを使用したり、榛谷重朝が、乗っている馬を毎日洗っていたりしたということが殊勝な行いであったと評判になった。
合戦において勲功抜群であった葛西清重(豊島清元の子)は、奥州のことを任されてそのまま滞在している。奥州から鎌倉への帰途に清重の母が病気であると聞いた頼朝が、見舞いのために遣わせていた使者が鎌倉に到着した。それほど重い病ではない、ということだったので頼朝は安堵した。
奥州の人々に配慮しながらの戦だったが、陸奥国は不作である上に大軍による逗留だったために、住民は不安な日々を送っていた。その対応のために頼朝は、葛西清重へと使者を送る。特に平泉の辺りでは窮民を救うようにと言づけ、具体的な措置も伝えさせる。奥州にいた時に命じておいたことも忠実にこなして、期待に応える働きをする清重に、頼朝は大いに感心する。清重の母の病気についても触れて、それほど深刻なものではないので帰国する必要はなく、引き続き奥州に留まって国中を警固せよと命じる。奥州における差配は清重に任せておけば安心である、と頼朝は多大なる信頼を寄せていた。
清重は、頼朝が挙兵した時から従っている忠義に厚い武者である。挙兵後に安房に渡っていた頼朝が、江戸や河越(両氏とも当初は頼朝に敵対していた)などのために身動きが取れないであろうからということで、葛西を本拠とする清重に対して「参陣するにあたっては海路を利用するように」と、気遣う発言をしたことが『吾妻鏡』には伝わる。葛西清重。今後ますます活躍する。
【写真】葛西清重の居館があった地と伝わる西光寺(葛飾区四つ木)にある東京都指定文化財「葛西清重墓」 写真提供=葛飾区郷土と天文の博物館
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
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