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源平とその周辺 |2015.12.11

源平とその周辺 第2部:第69回 永福寺(ようふくじ)造営にまつわる話(1)~怪しい男~

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1211 源平
 文治5(1189)年12月。奥州合戦で滅びた藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊を宥(なだ)めてその苦を救うために、頼朝は永福寺を建立することに決めた。怨霊鎮魂が主たる目的ではあるが、それと共に、平泉で目の当たりにした藤原氏による壮麗な寺院などの文化を、この鎌倉においても根付かせようとしたといわれる。永福寺の造営に着手することを決めたのはこの時点であるが、寺を建立する場所が決まって実際に完成するまでにはまだ数年かかる。注目するべきは二階堂といわれる二階建ての本堂である。これは、威容を誇っていた中尊寺の大長寿院の二階大堂を模倣して造られたものだ。永福寺が建てられたこの辺りが二階堂と呼ばれるのは、そうしたゆえんである。
 この永福寺の造営に力を入れていた頼朝は、建設中の現場にたびたび足を運んでその様子を見学する。建久3(1192)年1月のことであった。人夫達が土や石を忙しそうに運んでいる。その中に、左眼の不自由な人物がいた。頼朝は不審に思った。「いったいどこの誰が供出した人物なのか」。当時はこのような寺社造営などの際には身体丈夫な人間を人夫として差し出すのが頼朝に対する忠誠であったという。奥富敬之氏によれば、そうしない場合は禁忌が犯されて施主に災いがかかることになり、この場合頼朝を間接的に呪詛していると解釈されることにもなるという(『一度は歩きたい鎌倉史跡散歩』新人物文庫より)。さて、御家人の誰が差し向けたのか……。
 梶原景時に尋ねてはみたものの、いまひとつはっきりしたことは分からない。頼朝はその男を召した。そうして佐貫広綱にそれとなく合図をして縛り上げさせた。すると、一尺(約30cm)余りの刀を所持していたではないか。そして不自由だと思われた目には、なんと魚の鱗が被せられてあった。ますます怪しい人物だとして、頼朝は尋問をする。男は名のった。「自分は平忠光である」と。彼は平家の有力家人である伊藤忠清の子であった(第2部第21回参照)。鎌倉を徘徊して頼朝の命を狙うチャンスをうかがっていた、と忠光は述べた。このひと月後、六浦(横浜市金沢区)の辺りで忠光は梟首される。彼の頼朝暗殺計画は失敗に終わったが、まだどこかに平家の残党が潜伏しているはずであった。
【写真】
史跡・永福寺跡(鎌倉市二階堂)の「遣水」
写真提供=鎌倉市教育委員会
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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