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源平とその周辺 |2016.01.15

源平とその周辺 第2部:第70回 永福寺造営にまつわる話(2)~頼朝の熱意~

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0115 源平
 文治5(1189)年12月に、奥州合戦によって亡くなった者達の鎮魂を主な目的として建立されることが決まった永福寺。この造営作業中に平家の残党(平忠光)が人夫として紛れ込み、頼朝の命を狙っていたことは前回述べた。今回紹介するのは、この永福寺にかける頼朝の意気込みである。
 建久2(1192)年。お堂の前に池を掘るため、頼朝は立ち会って指揮をする。さらに、掘った池にどのような石をどう配置するかということにも頼朝は積極的に関わった。前日に藤原(二階堂)行政の家に泊まるほどの入れ込みようである。石の配置に関しては、僧である静玄に助言を求めた。静玄の指示のもと、大石を運ぶにあたって活躍したのが畠山重忠である。彼の屈強なる様子は、周囲の者を驚かせた。
 11月になって永福寺の完成も近づくころ、頼朝はまだ池の石の様子が気になっていた。静玄を呼び、調整をし直す。畠山重忠、佐貫広綱(平忠光を縛り上げた者として前回登場)、大井実春が巌石を運ぶ。この3人の怪力の者達による尽力は100人分に値するほど優れているとして、頼朝は大いに心を動かされた。そうしてようやく11月20日に完成。25日には供養(法会、法要)が行われた。計画した時から、3年が経っていた。
 さてこの寺は奥州合戦による死者の鎮魂のために造営されたと先述した。平泉の中尊寺二階大院(大長寿院)に感激した頼朝が発案して成ったものであり、毛越寺庭園を模しているとも言われている。吉田通子氏は、水準の高い「京風文化」である「平泉文化」を模倣することで、「京風文化」を象徴するものとしての永福寺を建てようとしたのではないかとする。そしてこの地において蹴鞠や歌会、舞などの貴族的な催しが行われ、永福寺が鎌倉における「京風文化」の中心となっていったことを指摘する(「鎌倉永福寺成立の意義」『地方史研究』第32巻6号)。
 興味深いのは、永福寺の威容は京都から鎌倉を訪れた者を驚かせるほどでもあったということだ。中世の作品である『海道記』には「感嘆および難し」、そして『東関紀行』には「ことにすぐれたる寺なり」「殊に心とまりて見ゆ」と、その素晴らしさを目の当たりにした際の感動が書きとめられている。
 ※『海道記』『東関紀行』の引用は日本古典全書に拠る。
【写真】
二階堂行政と縁ある金華山(岐阜県岐阜市)。古くは稲葉山と呼ばれ、戦国時代には斎藤道三が居城とした稲葉山城(後に織田信長が居城とした際、岐阜城と改称)が築かれていた。その城の基となった砦を、この山頂に初めて築いたのが行政だった
写真提供=岐阜市
著者:新村 衣里子

元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学講師。

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