源平とその周辺 第2部:第72回 大河兼任の叛逆
藤原泰衡の郎従であった大河兼任以下の者達が、奥州で反乱を起こした。出羽国(秋田県)において、源義経と名のり、あるいは源義仲の子の義高と称して蜂起。兼任は、子息達と7千騎余りの兵を率いて鎌倉を目指して進軍する。鎌倉方の由利維平(泰衡方の武将であったが捕縛されたのち、今は頼朝の御家人となっている)に対して兼任は使者を通じて次のように伝えた。「古来、親族や夫婦の敵に報復するというのは普通の事であるが、主君の敵を討ったという先例は、いまだない。自分は、この例を始めるために鎌倉に向かうのだ」と。維平は小鹿島(秋田県男鹿市)の辺りで兼任と戦ったが、ついに敗れる。兼任の勢いは止まらず、奥州合戦の際に由利維平を生け捕るという功績を挙げた宇佐美実政までもが討たれてしまった。在国していた御家人達は、それぞれが飛脚を頼朝のもとへ遣わす。また、兼任とは行動を共にしなかった彼の兄弟達も頼朝に対する異心のないことを表明するために参上する。経緯を知った頼朝は軍勢を奥州へ進めることにする。
兵を率いる大将軍は、千葉常胤(東海道)と比企能員(東山道)。また、頼朝は各々急ぎ奥州へ向かうようにとの仰せを出す。その5日後に上野・信濃の御家人達にも進軍を命じる。足利義兼は追討使として向かう。千葉胤正(常胤の子)は大将軍を承る。胤正は、奥州にいる葛西清重と共に合戦をしたいという旨を願い出た。以前、共に戦った経験があり、清重が優れた勇士であることを良く分かっていたからだ。胤正の意向は聞き入れられ、奥州にいる清重に対して御書が下されることになった。
さて清重が遣わせていた飛脚2人のうち、1人が情勢を伝えてきた。もう1人の使者は病気を患ってまだ到着していない。頼朝はその頃二所詣(正月に伊豆、箱根に参詣すること)のために伊豆山にいた。使者による報告は次のようなものであった。「大河兼任の叛乱によって、橘公成(小鹿島公業)、宇佐美実政らが討たれました。また、由利維平は兼任の攻撃を受け、城を放棄して行方知れずとなりました――」。この報告を受けた頼朝は、得心がいかなかった。あの由利維平がそのような行動をとるだろうか……。
【写真】古くは小鹿島と呼ばれた、現在の秋田県男鹿市の位置
著者:新村 衣里子
元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学講師。
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