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源平とその周辺 |2016.02.19

源平とその周辺 第2部:第73回 二所詣を終えて鎌倉へ

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0219 源平
 頼朝は不審に思った。使者は「由利維平が城を放棄して姿をくらました」と告げてきたが、本当だろうか。一方で橘公成(小鹿島公業)は討ち死にしたというが、真実は逆なのではないか。由利維平の方が亡くなって、公成が行方知れずになったのではあるまいか。自分は両者の考え方をよく知悉しているので、そのように推察する。
 さてもう一人の使者が、病が癒えたため伊豆の国府(静岡県三島市)に参上した。先に到着した使者と大体のところは同じ内容であった。違っていたのは、頼朝が気になっていた件である。やはり大河兼任が小鹿島を攻めた際に逃亡したのが橘公成であり、落命したのが由利維平だということであった。頼朝の考えた通りである。人々は、頼朝が御家人の性質を見極めていることに驚いた。
 翌日。二所詣を済ませた頼朝は鎌倉へと戻る。この時に参詣の順路が今後変更されるということになった。というのも、伊豆山権現(熱海の伊豆山神社)に向かう途上の石橋山において、佐奈田(真田)与一と文三家安の墓のところで頼朝が彼らのことを思い出し、落涙してしまうからだ。与一は、頼朝が挙兵したばかりの頃の石橋山合戦で命を落とした武者で、岡崎義実の子である(第1部第7回に既述)。10年が経った今、改めて頼朝は与一の死が惜しまれて、悲しいのであった。しかし参詣をするにあたって涙を流してしまうというのは憚られることであり、差し障りがあるという意見が先達から出た。こうして二所詣は以後、三島(三嶋大社・静岡県)、箱根、伊豆の順に進められることになった。
 さて、「逐電した」と報じられていた橘公成が奥州から鎌倉に参上した。公成は焦っていた。なぜならば、大河兼任に攻められた末に逃亡した、という讒言が仲間によってなされたと知ったからだ。死を怖れて逃げたわけではない。兼任に包囲された際、形勢を立て直さねばならないと考えたのだ。敵を攻略するための策を巡らせるために、ひとまずその場を退却しただけなのだ。それを、説明しなくてはならない―。この意図、理解してもらえるだろうか。
著者:新村 衣里子

元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学講師。

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