源平とその周辺 第2部:第77回 工藤祐経の話

伊豆出身の工藤祐経(助経)は、建久4(1193)年に富士の裾野で曽我兄弟に討たれたことで知られる人物である。在京経験もあり有能であった祐経は、頼朝に重用されていた。捕虜となった平重衡が鎌倉へ連れてこられた時や、静御前が鶴岡八幡宮において頼朝夫妻の前で舞を披露した時などに鼓を奏す役割を担ったこともある。そのような祐経に関する記事が『吾妻鏡』(1190年7月)に載る。
頼朝と佐々木盛綱が双六をしていた時のこと。盛綱は源平合戦で活躍し、藤戸の戦いの際には馬で海を渡ったとして頼朝を感心させた勇者である(第1部52回に既述。ちなみに兄の高綱は宇治川の先陣のエピソードで有名)。盛綱の傍らには、子の信実(15歳)が居た。そこへ工藤祐経がやってくる。祐経は後から来たにもかかわらず、信実を抱き上げてどかし、自分がそこに座った。信実は血相を変えて退出した。戻ってきた彼は石を持っており、その石で祐経の額を打った。祐経の額からは血が流れ、頼朝は激怒した。そうして信実は行方をくらましてしまった。翌日、祐経に謝罪するようにと頼朝は盛綱に命じるが、信実の行方が分からない。盛綱は、信実とは既に縁を切ったので父として代わりに謝罪するのも意に添わない、と主張する。頼朝は祐経に「今回のことを恨みに思わぬように」と使者を介して取りなす。祐経も事件の発端を顧みれば、信実としては理に適った行為だったのだと認め、以後不満を抱かぬことを頼朝に伝えた。
さて、敵討事件で討たれる人物というのは得てして悪役としての印象が強いが、討たれる側にも主張はあったろう。そもそも曽我兄弟の敵討事件は伊豆の領地争いに端を発するものであった。この点に注目すれば、祐経もまた被害者だったといえなくもない。『曽我物語』のはじめの部分にはこうある。
伊豆の大見、宇佐美、伊東(伊藤)を束ねていた寂心が、継娘の子供を嫡子として取り立て、伊東を譲って「伊東武者助継」と名のらせた。また、嫡孫を次男として立てて河津を譲り、「河津次郎助親(祐親)」とした。祐親(曽我兄弟の祖父)は不服であった。嫡孫の自分ではなく、なぜあえて継娘の子に大事な伊東を継がせるのか。しかし実は、この助継というのは寂心が継娘と通じて生まれた子なのであった。これが、のちに争いの種となる。
【写真】
歌川国芳の錦絵『鉤狐罠環菊』(国立国会図書館蔵)に描かれている工藤祐経
著者:新村 衣里子
元平塚市市民アナウンサー。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学講師。



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