カテゴリーから選ぶ
カテゴリーから選ぶ
源平とその周辺 |2012.07.06

源平とその周辺:第12回 義経、参上―黄瀬川の対面

タグ
 〈武蔵の郷の六所の庁に着きて、「佐殿(頼朝)は」と仰せければ、「一昨日これを通らせ給ひて、相模の国平塚に」とぞ申しける。また平塚に着き給ひて問ひ給へば、「あみのいしきか、湯本に候」とぞ申しける。〉『義経記』 (引用文献 『義経記』日本古典文学全集 小学館)
 ひとりの若者が東国を目指して駆けていた。兄、頼朝になんとしても会いたい。しかしなかなか追いつかない。義経(幼名牛若丸)の焦燥感が伝わってくる冒頭の引用文は『義経記』(室町時代の物語)のもの。頼朝は、武蔵の六所の庁(東京都府中市)から平塚へ、そしてあみのいしき(網一色。小田原市内)か、あるいは箱根町湯本へ。そして浮島が原(『吾妻鏡』では黄瀬川)でようやく頼朝に追いつき、対面するはこびとなった。
 『吾妻鏡』10月21日条には次のようにある。富士川の合戦に勝利した頼朝は(実際には甲斐源氏の武田信義の手柄であった)、勝ちに乗じて平家軍を追いかけて攻めようとした。けれども千葉常胤、三浦義澄、上総広常たちはそんな頼朝をいさめた。彼らは、常陸の佐竹氏などのようにまだ服従していない者たちがいるので、京へ攻めのぼる前にまずは東国を平定することが先決だというのだ。その意見に従った頼朝は黄瀬川に戻った。
 この日、鎌倉殿(頼朝)にお会いしたいという若者が宿所の辺りにたたずんでいた。しかし、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実たちは怪しんで取り次がずにいた。それを聞いた頼朝が「年齢を考えるに奥州の九郎(義経)ではないか」と言ったので、実平が取り次いだところ、はたして義経その人であった。
 義経は言う。「平治の乱の時は赤ん坊で、父義朝の死後は継父の一条長成(母の常盤は清盛の寵愛をうけたのち再嫁した)に保護されていました。出家するために鞍馬山に入れられたのですが、成長するにつれて敵討の思いを抱くようになったので自ら元服して、奥州の藤原秀衡のもとへ身を寄せました。今回、兄が挙兵したと聞いて参陣しようとしたら秀衡に強く引きとめられたので、ひそかに館を抜け出してきたところ、秀衡はあとから佐藤継信、忠信兄弟をつけてくれたのです」と。頼朝は、心強い味方が現れたことを喜んだ。
【写真】頼朝義経兄弟が涙の対面をし、平家打倒を誓ったとされる八幡神社の「対面石」(静岡県駿東郡清水町八幡39)

写真提供=八幡神社

新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

タグ
facebookシェア twitterシェア lineで送る
オンラインマガジン

湘南ローカル情報を日々更新中!

いますぐ使える 最新クーポン

色々な所で使えるお得なクーポンを発行中!

その他のクーポンをもっと見る
湘南ジャーナルDB 湘南のお店情報をまとめて掲載!
湘南ジャーナル まちナビ 最新情報

湘南のお店情報をまとめて掲載!

スタッフブログ

編集部情報を毎週更新でお届けします。

運営からのお知らせ

PAGE TOP