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源平とその周辺 |2012.08.03

源平とその周辺:第16回 清盛、死す

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〈入道、病ひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入れ給はず。身のうちのあつきこと、火をたくがごとし。(中略)ただのたまふこととては、「あつや、あつや」とばかりなり。〉『平家物語』(引用文献 『平家物語』水原一校注 新潮日本古典集成)
 福原から京都へ戻った平家は、源氏に対する巻き返しをはかっていた。近江源氏の蜂起をおさえ、次に狙うは、以仁王挙兵の際に味方した園城寺(三井寺。滋賀県大津市)、そして奈良の興福寺。衆徒が再び源氏と結びつくことを怖れたのだ。まず園城寺を焼き払い、次に興福寺を攻撃するために、清盛は重衡(清盛の5男。母は時子)を大将軍とする軍勢を南都(奈良)に派遣した。12月28日。夜の戦になったので、重衡が明るくするため火を放たせたところ、烈しい風のために猛火となって多くの伽藍に襲いかかった。興福寺に加えて東大寺の建物、さらには多くの僧侶の命や仏像、仏典などが失われた。東大寺の大仏殿までもが焼け落ちてしまったのだった。
 明けて治承5(1181のちに養和元)年1月14日。高倉上皇(後白河法皇と滋子の子。安徳天皇の父)が六波羅の池殿(池禅尼の子・頼盛の邸)にて、崩御。実父の後白河法皇と妻・徳子の父の清盛との対立に心を痛めていたという。慣れぬ福原の都での暮らしや南都焼討ちの心痛なども病状を悪化させていた。21歳の若さだった。
 しばらくして、清盛もまた病に臥す。高熱に侵された身体を、比叡山から汲んで来た水の入った水槽で冷やそうとしたが、水はぐらぐらとわきあがって湯になってしまうほど。さらに筧の水を注ぎかけると石や鉄が焼けたかのように水が飛び散り、身体にあたった水は炎となって燃えたので、黒煙が殿中に満ち満ちたという。
 回復の望みが薄いと感じた妻の二位尼(時子)は、言い残すことはないかと清盛に尋ねてみた。清盛は苦しげにこう答えた。「ただちに討手を遣わし、頼朝の首をはねて私の墓にかけよ。それが何よりの供養である」と。
 『平家物語』が載せる、二位尼が見たという悪夢。牛頭馬頭らが猛火で燃えている車とともに清盛を迎えに来る。閻魔の庁で無間地獄に落とすという判決が出たためだ。東大寺の大仏を焼き滅ぼしたというのが、その罪状だった。閏2月4日。熱さに悶え苦しんで、清盛は64歳の生涯を終えた。
【写真】
高さ約8.5m、十三重の石塔の「清盛塚」。平清盛像と琵琶の名手・平経正にちなんだ「琵琶塚」が並ぶ(兵庫県神戸市兵庫区切戸町1-3)
写真提供=神戸市

新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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