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源平とその周辺 |2012.09.14

源平とその周辺:第20回 義仲の涙―実盛、死す

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 1155年(久寿2年)に義仲の父・義賢が武蔵国大蔵館で殺害されたとき、義仲の命も狙われた。『源平盛衰記』によると、義仲を殺害するようにと命じられた畠山重能は、まだ幼い義仲を殺すにしのびず、武蔵国に本拠を置く斎藤実盛に託した。実盛は
7日間自分の手元で養って、義仲を木曽の中原兼遠のもとへと逃がす。その恩人実盛が、平治の乱後は平家に仕えていたので、義仲の軍と対峙することになったのだった。
 加賀国篠原での合戦。義仲軍の手塚光盛が相対したのは、名のれと言っても名のらずに「木曽殿は御覧じ知るべし」と言うばかりの坂東なまりの老武者。討ちとった光盛は、不審に思って義仲のもとへ首を持ってきた。義仲は光盛の話を聞いて、実盛ではないかと考えるが、高齢の実盛にしては髪が黒い。顔を見知る樋口兼光は涙をはらはらと流し、老武者の髪を洗ってみると、はたして実盛であった。兼光は、日ごろから実盛が「弓矢取る者は、老体で軍陣に向かうときには侮られないように黒く髪を染めるのだ」と言っていたと思いだす。維盛に従って富士川の合戦にも出陣していた実盛。大将軍の維盛に坂東武士について問われたときにその強さを語ったことで、平家軍が震え上がってしまったというのは『平家物語』における有名な話(戦わずに敗走した要因の一つとされる)。
 義仲は、「実盛も義仲が為には七箇日の養ひ父、危うき敵中を計らひ出だしける其の志争(いかで)か忘るべき」として、実盛の首を手厚く葬るよう命じる。恩人の死を惜しんで、義仲はさめざめと泣いた。
☆引用文献 『新訂源平盛衰記』學生文庫 至誠堂書店
【写真】
白髪に墨を塗っている多太神社の「斎藤実盛像」(石川県小松市上本折町72)
写真提供=小松市観光協会
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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