カテゴリーから選ぶ
カテゴリーから選ぶ
源平とその周辺 |2012.09.21

源平とその周辺:第21回 武将たちの死―篠原合戦

タグ

 実盛の死は、義仲の心に深く刻まれた。髪を黒く染めてまで勇ましく出陣した実盛は、討死を覚悟していた。それゆえ故郷(実盛の出身地は越前)へ錦を着て帰ることを望み、平宗盛から大将軍が着るべき錦の直垂(ひたたれ)の着用の許しを得てこの戦に臨んでいたのだ。彼の死は後々まで影響を与え、様々な実盛伝承が生まれた。近世には実盛の兜を見た松尾芭蕉が「むざんやな兜の下のきりぎりす」と詠んでいる。
 篠原の合戦では、平家方の有力武将が次々と哀切な死を遂げていった。
 例えば、500余騎率いる平家軍の高橋長綱。従えていた軍勢がわれ先にと落ちていったために、力及ばずただ1騎で南を指して進んでいたところ、途中で若武者に行き会う。高橋は彼をつかんで鞍の前輪に押しつけて名を問うた。彼いわく、「越中国の住人、入善小太郎行重、生年十八歳」。高橋ははらはらと涙を流し、「あな無慙、去年後れたる長綱が子もあらば(先だって亡くなった自分の子どもも生きていれば)、十八歳。わ君ねぢ切つて捨つべけれども、さらば助けん」といって、彼を放した。高橋は、味方の勢を待つために馬からおりて休み、打ち解けて入善に話をする。入善はその隙を狙って刀を抜き、高橋の内甲(うちかぶと)をすばやく、したたかに刺したのだった。情けが仇となった。
 また、平家方の武蔵三郎左衛門有国も討死した。敵方に深入りした有国は、「馬をも射させ、歩立(かちだち)になり、甲をも打落され、大童になつて(髪をふり乱して)、矢種皆盡(つ)きければ、打物(うちもの・太刀)抜いて」戦う。奮戦はしたが、ついに矢を7、8本射立てられてしまい、敵の方を睨みながら立往生するという壮絶な最期を遂げたのであった。この戦い、平家軍が失ったものは多かった。☆引用文献 高橋貞一校注『平家物語』講談社文庫
【写真】首洗池のほとりにある木曾義仲等の像(石川県加賀市手塚町)
写真提供=KAGA旅・まちネット
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

タグ
facebookシェア twitterシェア lineで送る
オンラインマガジン

湘南ローカル情報を日々更新中!

湘南ジャーナルDB 湘南のお店情報をまとめて掲載!
湘南ジャーナル まちナビ 最新情報

湘南のお店情報をまとめて掲載!

スタッフブログ

編集部情報を毎週更新でお届けします。

運営からのお知らせ

PAGE TOP