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源平とその周辺 |2012.09.28

源平とその周辺:第22回北陸の合戦にて散った東国武士―俣野景久、伊東祐清

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  斎藤実盛が、北陸の戦いに参戦した東国武士たちにこんなことを言ってみたことがあった。「今回の戦、源氏方の方が強いようだ、さあ木曽(義仲)殿のもとに参ろう」と。佐奈田与一と石橋山の合戦で組み合った俣野景久(大庭景親の弟)は答えた。「東国で名のある自分たちが威勢の良い方についてあちらこちらに参るのは見苦しい。自分は平家方として討死する覚悟である」と。実盛も実は討死を心に決めており、皆の気を引こうと思ってそれとなく問うてみたのだった。そして東国武士たちは相次いで戦死していった。伊東祐清(伊東祐親の子)も亡くなった。祐清は、父・祐親が蛭ヶ小島で流人生活を送る頼朝を攻めようとしたときに、いち早く頼朝に危険を知らせた人物である。祐清に恩を感じていた頼朝は彼を召し抱えようとしたが、祐親が平家方に味方したこともあって、その義理を通して平家方に従っていたのだった。
 俣野と祐清、この2人は河津三郎祐通に関わる人物だ。頼朝がまだ流人だったとき、伊豆で催された狩で相撲が始まった。勝ち続けた俣野は、長老の土肥実平まで挑発する。そこで登場したのが、河津三郎祐通(祐清の兄)。穏便第一の者だったが、烏帽子親の実平が嘲られては黙っていられなかった。祐通は俣野を打倒す。そんな力強さを見せた祐通が、この狩の帰り道、工藤祐経の手の者に射られて命を落とした。父・祐親と工藤祐経の所領争いに巻き込まれた形だった。祐通には、一万(十郎)と箱王(五郎)、さらに妻のお腹の中に子どもがいた。祐通の死後生まれた赤ん坊(御房)は、捨てられるべきところを、伊東祐清夫妻が兄の形見として引き取って育ててくれることとなったのだった(しかし御房は曽我兄弟の敵討事件後、自害してしまう)。
名のある東国の武士たちが次々と命を落とした、北陸での戦。義仲の勢いは、もう誰にも止められない。
【写真】
河津八幡神社の境内に建てられている『河津三郎力石』像(静岡県賀茂郡河津町谷津)
写真提供=河津町
 
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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