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源平とその周辺 |2012.11.02

源平とその周辺:第27回 交渉する頼朝―寿永2年10月宣旨

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 木曽義仲の目覚ましい活躍によって、平家は都落ちをした。勢いをつけた義仲が入京するに至って、源氏は官軍となった。それなのに、朝廷内において勲功第一とされたのは、義仲ではなく頼朝だった。頼朝、義仲、行家の順に功績があるとされたのは、源氏の嫡男である頼朝が、それまで後白河法皇に働きかけを行っていたからだ。義仲が入京すると、後白河法皇は鎌倉の頼朝に期待をかける。義仲をはじめとした源氏軍の横暴に頭を悩ませていた京都の人々も、頼朝の上洛を待ち望んだ。頼朝は鎌倉を動かずに、ある3つの提案をした。「1、平家が横領した神社仏寺領はもとのように本社、本寺にもどすこと。2、平家が横領した皇室や貴族の所領を返すこと。3、平家方の武士であっても降伏した者はその罪を許し、斬罪には処さないこと」。所領の復活が貴族たちの切なる願いであることを、頼朝はよく分かっていた。頼朝への評価はさらに高まる。従五位下の官位に復することに成功した頼朝は、ここにおいてやっと逆賊の汚名を返上することになる。だが頼朝は上洛しない。背後に奥州藤原氏の脅威があり、関東を留守にするのは危険だと考えたのだ。また、大軍を率いて食糧難の京都に入ることも危ぶまれた。都では、養和の大飢饉よりこのかた多数の餓死者を出しており、食糧不足は深刻な状況だった。
 そして出された寿永2年10月宣旨。「東海、東山両道の国衙領、荘園はもとのごとくに国司、本所に返して年貢を進上せよ。もしこれに従わない者があれば、頼朝に命じて実行させよ」。この宣旨は、頼朝が公的に東国での実行権を認められたことを示すものだ。当初は東海道と東山道のほかに、北陸道も含まれていた。だが、さすがに義仲の支配する北陸道は、削除された。それでも、東山道には義仲の勢力圏が含まれていた。義仲は、憤った。自分が平家討伐に出かけている間にそのような交渉が進められていたとは……。義仲は、すぐに都に戻った。頼朝と義仲の対立は、ついに決定的なものとなった。
 緊迫した状況のなか、頼朝は京都へ向かおうかと考えた。そんな折、京から鎌倉へと逃れてきたあの人に、会った。
【写真】頼朝の邸宅(大倉御所)跡に建つ「大藏幕府舊(「旧」の旧字体)蹟」の碑(鎌倉市雪ノ下)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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