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源平とその周辺 |2012.11.09

源平とその周辺:第28回 追いつめられた義仲

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 平頼盛は、平家一門の都落ちには従わず、しばらく都に留まっていた。しかし、頼朝と義仲との対立が表面化した今、義仲が戻ってきた都にいるのは危険であると判断した。そして逐電。鎌倉へと亡命し、頼朝と対面する。京都の情勢を聞いた頼朝は、兵糧の不足を理由に自身が上洛するのをやめた。かわりに遣わすことになったのは、弟の義経。10月宣旨をうけて、東国の年貢を進上するために都に赴くのがその役目だ。頼朝は、鎌倉から1日で行ける距離にある相模国府に頼盛らを送って彼らの宿所とし、相模国の目代を世話役として指名した。頼朝は、鎌倉と都との仲介役になってくれることを頼盛に期待した。頼盛の妻は、大荘園領主として権勢を誇る八条院(鳥羽と美福門院の娘)の乳母の娘であった。
 さて、都では義仲が追いつめられていた。義仲は、東国における権限を頼朝に与えた法皇を恨んだ。西には勢いを盛り返していた平家が、東には大軍を擁する頼朝がいる。後白河法皇に取り入ろうと讒言を繰り返していた行家は、義仲と袂を分かって平家追討のために都を出ている。後白河法皇は、平家追討のため西へ行け、と義仲に厳しく命じる。すみやかに都を出ていくように、との後白河からの強硬な要請だった。都の近くには、義経たちの軍勢が到着している。後白河法皇は、着々と義仲討伐のために戦闘準備を始めた。義仲の乳兄弟の今井兼平は、「帝王に向かって弓を引くことはさすがに憚られます。降服なされませ」と提案。しかし、義仲の言い分はこうだ。「挙兵以来、敵に背中を見せずに戦ってきた。相手が帝王だからといって降参するわけにはいかない ――」。
 11月19日。進退窮まった義仲は、法皇の御所である法住寺殿を攻撃。火を放つ。御所、炎上。法皇側の死者、多数。法皇自身も身柄を拘束されて、幽閉された。実権を握った義仲は、法皇の近臣49人の官職を解き、平家の旧領を手に入れる。法皇は、義経の軍勢に即刻入京するよう催促した。義仲のクーデターによって、頼朝が得たもの。それは、義仲討伐という大義名分だった。目指すは後白河法皇の復権。ついに頼朝は、兵を動かした。
 そしてこの冬、ある有力御家人が頼朝の命令によって殺される。謀叛を、疑われたのだ。
【写真】 かつては後白河法皇の住む院御所「法住寺殿」だった法住寺(京都市東山区三十三間堂廻り)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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