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源平とその周辺 |2012.11.16

源平とその周辺:第29回 有力御家人、上総広常

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 根気強く朝廷と交渉し続けた頼朝は、ついに寿永2年10月宣旨を得た。交渉の成果が実ったのだ。これで、東国における頼朝の権利が公的に認められたことになる。
 そのような頼朝のやり方に不満を持っていた御家人がいた。上総広常である。彼の主張はこうだ。「どうして朝廷や皇室のことばかり、みっともないくらいに気にするのだ。我々が関東でこのようにしているのを、誰が引き動かすことができようか」。朝廷のことなど気にせずに、関東で独立した政権を堂々と築いていけばよいではないか、と意見する広常を、頼朝は不快に思った。自分に対して、反旗を翻すかもしれない。危険だ。
 そういえば、こんなこともあった。あるとき頼朝が納涼のために三浦を訪れた。浜辺で頼朝が上総広常と落ち合ったとき、広常の郎従ら50人ほどが下馬して砂の上にひれ伏したにもかかわらず、広常だけは馬上から会釈しただけであった。そのとき、頼朝の馬の前に控えていた三浦(佐原)義連が、広常に下馬するべきであると注意した。広常は言う。「公私ともに3代の間、いまだそのような礼をとったことはない」。三浦の館では、かねてからこの日のために準備していた三浦義澄一族が、心をこめて頼朝を接待した。酒宴を催していたとき、岡崎義実(義澄、義連の叔父)が頼朝の水干(衣服)を所望した。頼朝はその場で義実にお与えになった。すると、これを妬んだ広常が「このような美服は広常こそが拝領すべきであるのに、義実のような老人にお与えになるとは心外だ」と言い放った。義実は怒って言い返す。「広常は功があると思っているようだが、義実のはじめの忠には比べようもない」。そして互いに暴言を吐き、あわや乱闘、となった。駆け付けた義連が「頼朝様がお越しになって、義澄が準備に励んでいるこのときに、何を好んで争うのか」と2人をいさめて、事なきを得たのだった。
 頼朝の挙兵時に2万騎の大軍を率いて参陣した広常。富士川の合戦後に上洛を急ごうとする頼朝を千葉氏と三浦氏とともに説得して東国にとどまらせ、佐竹討伐にも貢献した。だが、頼朝を頂点とする東国政権のなかで、頼朝に恭順せぬ者は、不要であるどころか危険分子でさえあった。頼朝は、広常を殺すことに、決めた。
【写真】 上総広常の居城であったと伝わる高藤山城址に建つ『高藤山古蹟の碑』(千葉県長生郡一宮町)
写真提供=一宮町教育委員会
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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