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源平とその周辺 |2012.11.23

源平とその周辺:第30回 広常の切なる願い

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 寿永2年も暮れようとしていた。頼朝の御所では、上総広常と梶原景時が双六に興じていた。その最中に、景時が双六の盤をさりげなく越えた。と、思う間もなく広常の首は掻き斬られ、頼朝の前に差し出されたのだった。朝廷の顔色を窺うことなく、関東で堂々と政権を運営すればよい、と頼朝に訴えていた広常。謀叛を疑われて、頼朝の命令によって殺された。
 寿永3(1184のちに元暦元)年正月1日。鶴岡八幡宮で御神楽があったが、頼朝は上総広常の事件で御所のなかが穢れてしまったために、参宮しなかった。8日。上総国一宮(玉前神社)の神主たちが、「故上総広常が生前、宿願があるということで甲(よろい)1領を当宮の宝殿に奉納していました」と頼朝に申し上げた。頼朝は言った。「きっと事情があろうから、使者を下向させて、その甲を取り寄せて見てみよう。広常が奉納した甲はすでに神宝となっていて、むやみに召し出すわけにはいかないだろうから、かわりに2領奉納すれば、神も祟らないだろう」と。そして甲2領を上総一宮に寄進した。
 17日。上総一宮から上総広常が奉納した甲が届く。甲の前胴と後胴を結ぶ紐のところに、1通の封書が結びつけられていた。頼朝は、その封書を開けて、何が書かれているかを知った。「上総一宮の宝前に敬って申し上げます」。広常は、次のような願を立てていた。「3年の間に、3つのことを致します。それは、神田20町を寄進すること。先例にそって社殿を造営すること。1万回矢を射る流鏑馬を挙行すること」。そしてさらに「これらの志は、前兵衛佐殿(頼朝)の心中の御祈願の成就と、東国の泰平を祈ってのものです」とあった――。広常は謀叛を企てるどころか、頼朝の成功を祈って甲を奉納し、願を立てていたのであった。頼朝は、悔いた。広常の弟たちは、広常の縁坐によって囚人とされていたが、許されることとなった。誰よりも強く、東国の独立を夢見ていた広常。頼朝は、彼の冥福を祈るよりほか、なす術がなかった。
【写真】玉前(たまさき)神社社殿(千葉県長生郡一宮町)
写真提供=一宮町教育委員会
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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