源平とその周辺:第31回 義仲の進む道
平家追討のために都を出ていた行家(義仲と頼朝の叔父)は、室山(兵庫県)で平家に敗れる。巻き返しをはかる平家が、都を奪還するために入京するという噂も流れだした。義仲にしてみれば、もとより平家に恨みはない。憎いのは、頼朝だ。孤立した木曽義仲は、播磨の室泊にいる平家と手を組もうと画策した。「共に、東国を攻めよう」と。しかし、勢いをつけた平家が、いまさら義仲に誘われて都に上り、協力するはずもない。平家は、強気だった。なぜならこちらには、切り札である3種の神器があるのだ。共に頼朝を討つという義仲の案は、拒絶される。
義仲は、考える。それにしても憎いのは頼朝だ。自分の父親(義賢)は、頼朝の兄・義平に殺された。自分も命を狙われた。運よく助けられたが、父親が勢力を広げていた北関東を捨てて信州の木曽へ逃げて来ざるを得なかった。しかも自分の大事な息子(義高)を、大姫(頼朝の娘)の婚約者という名目で無理やり差し出させた。婚約者とは名ばかりで、実際は人質に等しい。そして今、平家追討に功のある自分をさし置き、後白河法皇と交渉して鎌倉にいながらにして実権を握り、力を蓄えている。
頼朝追討の命令が出されている奥州平泉の藤原秀衡と手を組み、頼朝の弱体化をはかろう。あるいは、後白河法皇を連れて北陸に一旦退却し、体勢を立て直そうか。寿永3年1月11日。義仲は朝廷から、征夷大将軍(征東大将軍との説もある)に任じられる。征伐すべき敵が明確になった。関東の頼朝だ。平家、ではなかった。
既に義経から義仲クーデターの報を受けていた頼朝は、弟の範頼率いる大軍を京都へ向けて派遣する。義経率いる軍勢は宇治から、範頼率いる軍勢は瀬田(勢多)からの入京を目指す。義仲は、ただでさえ少ない勢力をさらに分けざるを得なくなった。自分はいざというときに法皇を北陸に連れていけるよう、法皇の御所(後白河法皇の近臣・平業忠の邸)を警護する。義仲に反旗を翻す行家の拠る河内へは樋口兼光を、瀬田には今井兼平を遣わす。そして、宇治。宇治には義経の軍が刻々と迫っている。この京への入り口、なんとしても守らねばならぬ。
【写真】日本最大級の馬上の人物像、埴生護国八幡宮の『源義仲騎馬像』(富山県小矢部市埴生2992) 写真提供=小矢部市
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。
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