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源平とその周辺 |2012.06.15

源平とその周辺:第9回 間に合わなかった石橋山―三浦一族

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〈和田小太郎義盛三百余騎にて、「軍は日定(ひさだめ)あり。さのみ延引心許(こころもと)なし。打てや、打てや」とて、鎌倉通りに腰越・稲村・八松原・大磯・小磯打過ぎて、二日路を一日に酒匂の宿に着く。〉『源平盛衰記』 (引用文献 水原一『新定源平盛衰記』新人物往来社)
頼朝の挙兵に応じた三浦勢(三浦義澄、和田義盛、佐原義連ら)は、もどかしく思っていた。海上から船で参戦しようとするも波風荒くして叶わず、陸の道を行こうとするも丸子川(酒匂川)の洪水で馬も人も渡れない状態であると聞いていて、頼朝軍との合流が延び延びになってしまっていたのだ。和田義盛たちは急いで馳せ参じようとして酒匂の宿(小田原市)まで辿り着くが、やはり丸子川は渡れない。三浦の者たちが合流できなかったためもあって、少数の頼朝軍は平家方の大庭景親と伊東祐親の軍に挟まれて敗北を喫した。
頼朝軍が合戦に敗北したとの知らせを受けて、三浦勢は三浦へと引き返すことになる。その途中の「金江河」(金目川か)には畠山重忠(当初は平家方)が五百余騎で陣を取っていた。ここをなんとか突破し、小坪での合戦を経て、最終的には畠山方に三浦の本拠地である衣笠城を攻められてしまう。当時の三浦一族の長であった高齢の三浦義明(岡崎義実の兄)が一人、城を守ってその最期を遂げた。衣笠城を脱出した和田義盛や三浦義澄などの三浦党は、安房へ逃れようと海上に出た。そこではからずも石橋山の合戦で逃れてきた北条時政や岡崎義実らと出会う。そしてやっと、頼朝とも合流する。のちに義盛が武士の進退や戦時の軍務をつかさどる侍所の別当(長官の意)に任ぜられることになるのは、安房へ向かった際にこの職を望んだからだとも伝えられる。
平家討伐でも活躍した三浦一族。一の谷の合戦の鵯越では、源義経が率先して馬で坂を降りる途中、垂直の崖を前にして怖れずに真っ先に駆け降りたのが佐原義連だった。壇ノ浦の戦いでは、和田義盛が岸から放った矢は、遠くの平知盛の船にまで届いたという。また義盛に関しては、木曽義仲討伐後に頼朝に呼ばれて出頭した義仲の愛妾の女武者、巴御前を妻としてもらいうけて朝比奈三郎義秀をもうけたという話も残されている。
【写真】『衣笠城址』の碑(横須賀市衣笠町29)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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