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源平とその周辺 |2012.06.08

源平とその周辺:第8回 逃げる頼朝―土肥実平の焼亡の舞

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〈(大庭)景親は頼朝の跡を追って峯や谷を探しまわった。ここに梶原平三景時という者がおり、確かに(頼朝の)御在所を知っていたが、情に思うところがあって、この山に人が入った痕跡はないと偽って景親の手勢を引き連れ、傍らの峯に登っていった。〉『吾妻鏡』(引用文献 『現代語訳 吾妻鏡』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館)
 石橋山の合戦で惨敗した頼朝は、山中に逃れた。巨大な倒木の洞に隠れたところを梶原景時(当初は平家方)に見つかってしまったが、運よく見逃してもらえるのだった。梶原が大庭景親の手勢を引き連れて去ったとき、頼朝は髻のなかに入れていた正観音像を取りだし、ある巌窟に安置した。土肥実平がその理由を尋ねたところ、「自分の首が景親らの手に渡ったときにこの本尊を見れば、源氏の大将軍のすることではないと人が非難するだろうから」ということであった。
 頼朝は、さらに箱根権現の別当行実やその弟永実の助けもあって箱根にかくまわれた。この行実の父が頼朝の祖父の為義や父義朝と親交があったという関係で、頼朝が北条にいる頃から忠義を尽くしてくれていたという。しかし、頼朝の身に危険が迫ったために、一行は箱根を逃れて土肥へと向かった。
 『源平盛衰記』では、土肥実平(中村宗平の子・土屋宗遠の兄)が舞った焼亡の舞についての話を伝える。石橋山の合戦に負けて土肥の真鶴へと向かうときのこと。土肥実平が山の頂から自分たちの館を見下ろしたところ、伊東祐親勢が押し寄せて火を放ち、実平の領地を焼き払っていた。その時に頼朝の前で舞い踊ったのが焼亡の舞。「土肥に三の光あり。第一には八幡大菩薩が我が君を守護される和光の光、第二は我が君が平家を討ち滅ぼして大地と世界中の海とを照らしなさる光、第三には実平をはじめとして我が君に心を寄せる人々が君の御恩を蒙って子孫繁盛する光である。我が家を焼きたければ何度でも焼け」とめでたく歌い舞った。頼朝は感激した。
 頼朝一行は体勢を立て直すために、土肥氏の助けによって真鶴から安房国(千葉県)へと船出した。
 
土肥氏館跡、JR湯河原駅前広場に建つ『土肥實平公並夫人像』(湯河原町土肥1丁目1)
新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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